83話 宿泊の話です
学者は目を瞑って記憶を思い返しているようだ。
「あの辺は霊峰を背後に抱えるから、それについての伝承も多いんだよね。前に言ってた雪男もあの地帯に現れると言われているんだよ。もちろん会えはしなかったけどもね」
「雪男は人を殺したりしますか?」
「ええ? 君はこの資料に乗ってる死体の犯人がウェンディゴだとでもいうのかい? 食べはするだろうけど落下死はどうだろうなあ」
資料を見ながら頭を捻っている。さすがに突飛すぎたようだ。
研究してる本人が見ていないのだ、やはり神話生物は稀有な存在なのだろう。
「彼らは彼らの神に人を捧げることはあるだろうけどね。この死体の状態だと、それとも違うだろうしなあ」
「彼らの神ですか?」
「『風に乗りて歩むもの』と呼ばれる神様で、人を捧げて祈ると、生贄をウェンディゴに変えるそうだよ。ただ、縄張り意識が強い種族だから結局増えても殺し合いになったりするから彼らのすることはよくわからないけどね」
「風の神様?」
あの時、風を吹かせた神様の旦那さんだろうか?
「ああ、黄衣の王とは違うよ。王の眷属に当たる神だね。風に乗って旅をしているそうだよ。なかなか詩的じゃないかい?」
「確かにそうですね」
風に乗って旅とは優雅なものである。どこでも行けてしまうのだろうか。
「うーん、老人達から収集した白綿虫の話は覚えているけどあの地方で不審死かあ。白綿虫が低く群れて飛ぶ年は冷夏になるという伝承はあの論文で検証したけれど、確かに死人が多く出るという話も出ていたよ。ただそれは冷害によるものだと僕は思っていたけど実はそうではなかったのかな」
ぶつぶつと独り言の様に呟いて頭の整理をしているようだ。
「よし、それじゃあちょっと僕はウェルナー男爵領へ行ってみよう」
近所のコンビニに行くかのような気軽な発言をされてしまった。
「おい、ギル。そんな突然どうしたっていうんだ。王宮に来るのだって嫌々だったお前が」
詩人が慌てている。詩人こそどうしたのその言葉遣いはと突っ込みを入れたいのを我慢する私である。
「だから王宮に来て良かったと言ったじゃないか。実際に見ることの収穫が身に染みたんだ。足を運ぶのは悪い事ばかりじゃないんだ。前にも出向いてる場所だしね」
「とりあえず、男爵本人から話をきちんと聞いてからじゃないかな? 事前の情報は必要だからね」
一番冷静に判断したのは王子だったようだ。
私も人が死んでいるのなら、すぐに出発しないと気が焦っていた。
確かに婚約パーティの場では祝いの場であるからか詳細は語られなかったし、男爵本人が怯えていることくらいしかまだわかっていないのだ。
とりあえず男爵がまだ王都にいるうちに王宮に呼んで話を聞こうという事になった。
霊峰地帯、霊峰山脈と呼ばれる土地は王国の最北に当たるので王宮に出向くのも行くのも一仕事なのだ。
昨日の今日ならまだ王都に滞在しているだろうと王子は侍従に命じてすぐに連絡を取ってもらうことにした。
「お嬢さんも現地に向かおうと思ってるのかい?」
学者が意外そうな声を上げた。
「そうしなければなにもわからないという話を、フリードリヒ殿下とお話していたところですわ。私達が持っているのは、この陳述書と報告書だけなのですもの」
「ふむふむ、なるほど。君は案外学者向きかもしれないね。でもあまりお勧めは出来ないかなあ」
「どういうことですの?」
「あの辺の土地はそりゃあ貧しくて、2階建ての建物なんて領主館と教会くらいなんだよ」
「うちのカントリーハウスも2階建てですけど……」
そう答えると学者が笑い声を上げた。
「お嬢さんが思っているのとは、まったく違うと思うんだけどね。まあ王都のレストランの方が立派な建物だって言っておこう。貧しい領地には訪れる客もいなければ泊まるところなんて木賃宿くらいしかないんだよ。それだって酒場と兼業で連れ込み宿まがいだけどね」
連れ込み宿という言葉に反応してか、ペシンと詩人が学者の頭をはたいた。
学者がいると詩人がなんだか普通の人みたいで面白い。
「いてて、ナハディガルも甘やかすばかりじゃなくてお嬢さんに現実も見せてあげなよ。世の中、レースと砂糖菓子だけで出来ているのではないんだってね。あんな北の土地に召使いと護衛を引き連れて行ったところで、領主の館も教会も泊まれるところなんてしれているんだ。こうやって話をするのも親切というものさ」
完全に失念していた。
そうか爵位があるといっても、どこも恵まれているわけではないのだ。
貧しい土地だということは知っていたのに、それでも貴族がいる土地なのだからと高を括っていた。
王子も想像していなかったようで渋い様子だ。
まあ泊まるところがなければ馬車の中やテント泊でも私は構わないのだけど。
それでもこの生活に慣れ切った体にはきついかもしれないが、日本の狭い家屋で育った記憶のある私にとって精神的にはそこほど辛くはないと期待しよう。
それよりも懸念されるべきは馬車酔いだ。
それを考えると今から頭が痛い。
どちらにせよ準備も不十分なのですぐに出発とはいかなかった。
そもそも護衛がいるといって貴族子女がお目付け役も無しで1人で旅に出るなど言語道断との事だったのだ。
本来なら既婚女性がお目付け役として同行しなければならない。
お目付け役無しで王子と一緒に学術地区へ行ったりしたので自由がきくかと思いきや、あれは王子ありきの話だったのである。
それについては領地で留守を守るマーサが適任なのだけれど、エーベルハルトまで帰っていては旅程がその分長くなってしまう。
それは馬車に揺られる時間が長くなるという、私にとっては歓迎し難いものなのだ。
かといって他に人を探そうにも、長年の引き籠りのせいで個人的な知り合いもいないし、いきなり北の荒れ地にまで付き合ってくれる殊勝な貴婦人がいるとも思えない。
母が動ければ良かったのだけれど私のお陰でびっちりと貴族付き合いのスケジュールが詰まってしまっているし、両親の知り合いから見繕うことも出来なくは無いがそうするとその家を優遇しているように周りにとられてその弁解にまた奔走しなければならないという。
旅をするのはまだ先だと思っていたのでそんな問題があるとは思ってもいなかった。
準備というのは大事なものである。
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