82話 北の土地です
「ふふふ、冗談がお好きな方なのですね」
冷や汗を掻く私をよそに、ソフィアがお茶を並べながら笑い出した。
「侍女の身でお話にお邪魔してしまって申し訳ありません。でもクロ様は人を食べたことなんてありませんよ。だって一日中、私や他の使用人と過ごして、毎晩シャルロッテ様と一緒に眠っていてそんなそぶりは一度だってなかったのですから」
ソフィアは可笑しくて仕方の無い様だ。
「それで思い出したんです。クロ様は最初、街をうろついている時に黒犬様と呼ばれて悪い人を食べるだなんて噂されていたのを」
「ほうほう、そんな噂が?」
「ええ、エーベルハルトの領民は震え上がったものですわ。黄昏時に黒い犬が出て頭が開いて悪い人を食べちゃうだなんて今思うとお伽話もいいところなのに、あの時は大の大人までが話の種にしていたんですよ」
それを聞くと学者は今度はクロちゃんの頭を触りまくっている。
どこかに裂け目がないか確認しているのだろう。
「どれも根の葉も無い噂でした。現実はこんなに綺麗で可愛くて、人を救って下さる黒山羊様からのお使いなのですから」
ひとしきり笑うとソフィアは優し気な目でクロちゃんを見つめる。
それに答える様にクロちゃんが「めえ」と鳴いた。
「大昔の記述も当てにならない事があるようだ。落ち仔と呼ばれるものは往々にして恐ろしい外見と人を贄にすると語られているものですから、そういうものかと思い込んでいましたよ。やはり百聞は一見にしかずと言ったところですね」
学者は持ってきた鞄からノートを取り出すとクロちゃんのスケッチと詳細を書き込みはじめた。
この人は根っからの研究者なのだ。
クロちゃんが人を食べていたとしてもそうでなくてもそれは悪い事でも良い事でもなくて、そういう事象であると受け止めるのだろう。
私も彼に見習ってそういう風に物事を見る様になってみたいものだ。
クロちゃんが人食いかどうか。
私はそれを見てはいないのだから知る由はないのだ。
これは詭弁だろうか?ソフィアの様に笑い飛ばすことは出来ないけれど、元の姿を知っている身としてはその辺が落としどころなのかもしれない。
もし事実として人を食べていても、クロちゃんは神様のもの。
私が悪だと決めつけることは出来ないのだ。
人として正しい事と、神様のそれは違うとしか私には言いようがなかった。
「しかし面白い。そのエーベルハルトでの噂と落ち仔の伝承の類似点はいくつもある。目に見えるものと見えないもの。果たしてどちらが正解なのか」
学者は今度はクロちゃんの毛に鼻をうずめてクンクンと匂いを嗅いでいる。
さすがにこの辺にまでなると見ているみんなもドン引きである。
「ギル、その辺にしておいてはどうかな? さすがに淑女たるクロ様の主人の前でそういう事まではやりすぎじゃないだろうか……」
詩人が止めに入ったことに驚きと、いつも非日常空間を作る彼にも常識があったのだなあと変ところを確認した気分だ。
「ああ、これは失礼。つい熱心になりすぎてしまった」
ぱっと顔をあげるが、メモを取るのを忘れない。
「何やら家畜とは違う良い匂いがしますね。汗をかかないし排泄物にも匂いがないということかも知れない」
「匂いは湯あみの石鹸の物ではないでしょうか? 汚れが無いように定期的に洗っていますから」
そういうとソフィアは侍女部屋に一度下がると、クロちゃんの入浴に使っている石鹸を持って戻ってきた。
「ああ、ああ、はいはいはい。確かにこの匂いだね。どこの石鹸かな? とりあえず記録はしておこう」
ここまでくると呆れるというより感心してしまう。
彼の学究的好奇心は本物なのだ。だからこその奇行であるのだけれど。
「王宮なんてめんどくさいところへ来るなんて僕としては避けたかったのだけど、ここまで収穫があるのはすごいね。外には出てみるものだと考えを改めたよ」
メモの記入が一段落したのかようやくお茶に目を向けた。
冷めたので入れ直しますというソフィアを止めながら冷えた飲み物も好きなんだよと気にせず飲んでいる。どこまでも貴族らしくない人だ。
「おや、これはなんだい?」
テーブルの上の資料に気付いたのか学者は手に取って読みだした。
「落下死、落下死、らっかーし。ふむふむ不思議な資料だね? ウェルナー男爵領とはどこにあるものなのだろう?」
「エーベルハルトの隣ですわ。男爵様から相談を持ち込まれまして、王子が資料を持ってきてくださいましたの」
「君は令嬢らしくないね。掃除をすると思ったら、調査員の真似もしているとは。エーベルハルトの隣というと北の霊峰地帯かな?」
「そう呼ばれてもいますわね、あの辺は人には踏み越えられない高い峰が連なる山を背後に抱えているので、国境を守る侯爵領から外された土地ですわ」
その一帯は侵略の危険はないが兵も置かず捨てられた土地というイメージが強い場所だ。
だからこそ新参貴族へ宛がわれる領地としての皮肉を持つ。
戦で成り上がった新参は商人上がりでもない限り世情に疎く、侯爵領の隣に不服はないだろうという言葉に騙されるわけだ。
そもそも商人ならばもっと上手く立ち回れるので領地は貰わずに爵位と年棒だけで結構ですと、その実、強欲な、だが一見殊勝な遣り取りをしてみせるのだ。
昔ながらのそういう貴族の遣り取りはなんだか詐欺の様で好きになれない。
「あーはいはい、思い出したよ。多分僕は行った事があるんじゃないかな? 白綿虫の論文の現地調査で出向いたんだよ」
「なんですって!」
王子と私は顔を見合わせた。




