7話 いろんな国があるみたいです
そんな訳で地理の勉強からそれてしまったのだけれど、本日の収穫は十分。
図書室にある娯楽モノだと思っていた魔獣辞典や魔法百科は実用性のあるものだとわかり、読みたいジャンルが増えました。
かと言ってすぐそちらに飛びつくのは私の悪い癖である。
せっかくの貴重な地図本なのだから、見れる時にじっくりと見ておかないともったいないというものだ。
国内地図の説明の後は近隣国との位置関係の勉強である。
目の前には広域地図が開かれている。
「ここリーベスヴィッセン王国は南に海、他三方が隣国に囲まれていますが我がエーベルハルト領のように勇猛な侯爵様達が国境を守っているのでなんの不安もありませんぞ。王国は肥沃な大地と一部が平野のお陰で農耕にも貿易にも恵まれた神に愛された土地なのですよ」
この老人は余程この土地に愛着があるのだろう。
その言葉には誇らしげな響きが感じられる。
海があり山も川も平野もある。
確かに恵まれているだろう。
海がない小国であったら、周りの戦略次第であっという間に陸の孤島になってしまうのだ。
「この海は泳げるの?」
「もちろん泳げますとも。きれいな海ですよ。こちらの主要は商業港になっており活気にあふれております。少し離れたところには漁村や保養地がありますので、貴族の皆様や中流階級以上の庶民が海を楽しみに足を運んでおります。シャルロッテ様の祖母のマグダレーネ様の現在の居住はこちらですね。あの方は寒いのが苦手でしてね。よくこの土地が寒すぎるとこぼしておりました。実際には山からの吹きおろし風が強いせいでそう感じるだけだと思うのですが、私にはその颪が土地の持つ威厳のように感じられて好きなのですがね。シャルロッテ様が長旅出来る年齢になったら存分にマグダレーネ様の元へ訪問するといいですぞ」
ハンス爺は「その時はこの爺も連れて行って下さいよ」と、ちゃっかり付け加えるのを忘れなかった。
本音は旅行の楽しみと目の届かない場所に送り出す心配半々なのだろう。
「長旅が出来る年齢って、いくつくらいかしら?」
「そうですな。王都へ向かうだけで寝込んでしまうようではまだまだですな。後2、3年はお待ちいただいた方がいいかと存じます」
そう、この体は小学生の低学年だ。
せめてもう少し体力がなければ、長距離の移動には耐えられまい。
漁村では何が捕れるのだろう。
新鮮お魚とか食べたい。
お醤油は存在しているのだろうか?
無くても新鮮な小ぶりの青魚と塩があれば、魚醤が作れるのだからどこかにはあるはずだ。
お刺身は食文化としてあるのかな?
今後の読書の予定に、食と旅行書も加えなければ。
「他の国はどんな感じなのでしょうか?」
「北の山岳連邦は小さい国の集まりで出来ていますね。ガーベルングスヒューゲル王が横のつながりで纏めておられます。木工や林業が盛んですな。一つでは成り立たない国の寄せ集めですが、地方ごとに強い特色があって、そのおかげで多彩な国といえるでしょう。どの道も山越えしないと行けないのが厄介ですが、自然の要塞とも言えますな。西から南西にかけての国境にあたるのは神聖教国ドライファッハといいまして全土に信仰される地母神教の総本山を抱える宗教国家になります。ドライファッハ詣、巡礼は誰しもが憧れる一種のステータスのひとつになっておりますよ。あちらもそれを十分わかっているようで、参拝者用の宿やお土産などそれは充実してますな」
さらに西に行くと商人の集まる商業国家グローセンハングに、冥府に近いとされる神話の土地ヴィエランダー、その他にも古都や砂漠と話が広がる。北には雪に覆われた宮殿もあるらしい。
ハンス爺の言葉に、私は想像の中で旅に出る。
見たことのない料理に舌鼓を打ち駱駝に乗って月夜を散歩をするのだ。
花の筏に揺られて人魚に挨拶をして、温泉につかって極楽極楽とつぶやいたり……。
はっと我に返る。
「そういえば温泉はないの?」
私が想像を楽しむ間、黙って待っていてくれたハンス爺は目をぱちくりさせた。
「温泉という言葉をどこで知ったのか知りませんがこの辺りでは聞かれませんな。読書家のシャルロット様ならそういうこともあるのでしょうね。王国内には残念ながら獣が通うようなものしかないと聞きます。源泉も山奥ですし、この爺も実物に入ったことは御座いませんが、隣国には豪奢な宿泊施設を構えた温泉もあるそうですな」
ああ、残念。
すごく残念。
この屋敷にもお風呂はあるけど、猫足のバスタブに汲み置きのお湯を入れての入浴なのだ。
香油やハーブ等を入れて贅沢感はあるけど、やはり溢れかえる湯量を味わいたい。
この領地には火山があるのだし、探せばちょうどいい湯元があってもおかしくない。
お湯を運ぶか、引くか出来ないだろうか?
そしてゆくゆくは温泉旅館を経営とかもいいかもしれない。
「お茶をお持ちしました」
乳母のマーサがメイドと一緒に、図書室の大きな扉を開けて入ってきた。
「おお、ちょうど喉が乾いた頃ですよ」
2人が持つティーセットをテーブルに置かせると、ハンス爺は優雅な手付きでお茶を入れだした。
私の仕事なのにと女性2人は言うが、長年使用人のトップにいたハンス爺は気にもかけない。
カップは4つ。使用人とお茶を飲むのは不作法かもしれないが、前に子供のわがままとしてお願いしてみた所、屋敷内だけならと意外と簡単に受け入れて貰えた。
そのかわり、礼儀作法の勉強をサボらないという約束をさせられたけれども。
ひとりでお茶を飲むのもいいけれど、おしゃべりをしながらでは楽しさが違う。
「今日は何を読まれたのですか?」
マーサの質問に地図を見たことを答える。
地図本は、ハンス爺の手によりあっという間に奥へ片付けられてしまった。
彼女達は一般配布されている大まかな地図しか目にしたことがないという。
しばし観光地の話題の後、あろうことかハンス爺が私の無知をばらしてしまった。
どちらかというと私から魔獣等の野蛮な話を隠しおおせたマーサへのハンス爺からの賛辞ではあったが。
「お嬢様が魔獣を知らなかったなんて!」
メイドのソフィアが声を上げた。
そこまで驚かなくてもと思ったが、何やら「やはり自分がしっかりしないと」とブツブツと手を組んで決意を固めているようだ。
ソフィアは私より6歳上の男爵家の5女である。子供ながらにしっかりしており後々私の侍女になる予定でマーサが仕事を教え込んでいる最中だ。
高位の貴族の家には、年頃の下位貴族の子女が行儀見習いに入ることが慣習として残っている。
知識はあるがこの世界の認識がすっぽ抜けている私は、大人から見るとかなり危なかしいらしく専属で長く付き添える侍女をつける事にして年若い彼女が抜擢されたのだ。
乳母のマーサは侯爵家の傍系の寡婦であり、礼儀作法も使用人としての能力も問題無いのだが、如何せんお茶会や王都学院では見目好い、若い侍女が必要になる。
貴族もその面子を保つため、人材の確保に苦労しているようだ。
ソフィアの家は、彼女の働きで侯爵家の後ろ盾を得たと言っても良い。
王都学院への入学も私に合わせる形で現在は保留にしてくれている。
学院の方も慣れたものでその辺はかなり融通が利いたり、側仕えを選んだ子弟の為に専用のカリキュラムがあるらしい。
そこに彼女の自由は無いかもしれないが、侯爵家の令嬢と一緒に教育を受け専属侍女になれるのは名誉な事で、花形の就職先と言ってもよいだろう。
それこそ主人の交流によっては、他の貴族に見初められ妻や妾として迎えられる可能性もあるのだ。
そうして身に着けた礼儀作法を女主人として存分に振るう将来もあるので、人気というのも頷ける。
前世の自由と平等の精神など、ここには無い。
だからといって、それが不幸であるとは誰にも断言出来ないのだ。
それはこの世界の人への侮蔑になる。
彼らには彼らの尺度があるのだから。