668話 在りし日の少女です
自分に似た少女。
それは一人しか思い当たらなかった。
「そうそう、迷子のようだったよ。可哀想に心細かったのか、少し涙ぐんでいてね。私達の事を『おとうさま』『おかあさま』なんて呼んで抱きついてきたんだ。そういえば、お前も小さな時は私達をそう呼んでいたなあ。それはもう可愛くて、なんて素晴らしい宝物を私達に与えてくれたのだと神に感謝したものだ」
男爵は、懐かしむように霧の向こうを眺めていた。
その目には、じわりと涙が滲んでいる。
「不思議なことにね、その子が着ていたドレスも、私が前にあなたに用意した物にそっくりでびっくりしたのよ。あなたには地味で合わないのに、何故か買ってしまったのよね。きっと同じ店に発注したんだわ」
夫人も、目に涙を浮かべながら男爵の腕に手を添えて少女が消えた方を見ている。
彼らは、まるで目の前の娘を目に入れていなかった。
「『さようなら』と言って行ってしまったけれど、この霧の中、あの子はお家に帰れるのかしら?」
心底、心配しているのだろう。
少し不安げなその声が、そう示していた。
じわじわとアニカは焦りを感じだした。
なんなの?
これはなんなの?
なんで私を見ないの?
アニカの手はいつの間にか汗ばんでいた。
「パパ、ママ……。私、疲れたから先に寝る」
そう言うと、名残惜しそうに消えた少女に思いを馳せる両親を置いて、足早に前庭を抜けて館へと入っていく。
足音がいつもより響いた。
いつものあの両親なら彼女を心配して医者を呼ぶ程なのに、彼らは追っても来ない。
その事が一層アニカを焦らせていた。
何が起こっているの?
急がねば。
急いで確認しなければ。
男爵邸に飛び込むと、一目散にある部屋を目指した。
バンッ!と大きな音を立てて、扉を開ける。
そこは自分の身代わりである、もうひとりのアニカを軟禁する為の部屋だった。
誰にも認識されないよう、念入りに魔術が掛けられた軟禁部屋。
ここに出入りする使用人には、頭を曇らせる魔術がかけられ彼らは何の世話をしているかも覚えていない。
だから可哀想な子供に同情して逃がそうと考える者もいなかった。
いつも身代わりがいた寝台は、シーツに皺ひとつなく綺麗に設えてある。
誰もいた形跡もなく、元々装飾品の少ないこの部屋はがらんどうであった。
「あんた……、あんた何してくれたのよ?」
声が怒りで震える。
後ろに控えるハントを、アニカは睨みつけた。
「おや? あの子達はどこに行ったんだ?」
青年は、わざとらしくキョロキョロとしてみせた。
「しらばっくれても無駄よ! あんたアレをどこにやったのよ!!」
少女の怒りは凄まじく、目を吊り上げて恐ろしい剣幕だ。
「いや、私は知らないよ。知る訳がないだろう? ずっと君と一緒にいたじゃあないか」
それは尤もな事であったが、しかし相手は神なのだ。
思いもしない奇跡を起こす事だって、出来るかもしれない。
「あのクズひとりで逃げられるわけないじゃない!!」
金切り声を上げるアニカに、にこやかにハントは返事をする。
「ああ、さっき男爵夫妻が言っていたのは、あの子の事だったのか。これは参ったなあ」
わざとらしく、今気付きましたとばかりに手を叩いてみせた。
「逃げた? 逃げたって言うの?」
よりによって霧が出ている。
見失った子供を、この神が追えるのかアニカは不安になっていた。
それを知ってか知らずか、ハントは追う素振りも見せずに呑気にしている。
「いやあ、油断したなあ。そういえば犬人間が一緒にいたんだ。頭が回る様には見えなかったのに、油断したな」
アニカは、混乱した。
犬人間だというから、言葉も解さない人のなり損ないの異形だと思っていたのだ。
人の心を蝕む妖虫がいたり、視界を共有できる馬の頭の鳥もいる。
蜘蛛の女や、神を降ろす男もいる世界なのだ。
そんな訳の分からない者達がいるのだから、犬みたいな人のなり損ないがいても当然だと思っていた。
そして、あの身代わりに懐いているのなら馬鹿な無能であると決めつけていた。
「確か、神話の生き物って言ってたわよね? あんたみたいなのってこと?」
「いやいや、あんな下等種族と一緒にしないでくれないか。鉱山に住み着いて人の残飯を漁るような奴さ。片言しか人語を介さないときてる。そんな阿呆にまさか逃げる知恵があるとは思わないだろ?」
ハントは、心底感心した風である。
「あんた……。まさか、わざと逃がしたんじゃ?」
「ええ!? そんな事をするはずがないだろう? ああ、なるほど! 先程の馬が怯えてたのは、彼のせいだったんだよ。確かに危険な『人』はいなかった。まさか、『人』以外がいるなんて思いもしないだろ?」
馬鹿にしているのかと怒鳴ろうとした時、アニカはハッと気付いたように、自身の指を見る。
黒い石が嵌った指輪がそこにあった。
「支配の石は? 首飾りと指輪の。これがあれば逃げられても場所がわかるわよね? 離れててもあのクズの正気と魔力は私の物よね?」
畳み掛けるように、一縷の望みをかけるように問う。
彼女は、希望に縋るようにいつの間にかハントの上着の袖を引っ張っていた。




