667話 霧の中の訪ないです
アニカは見目好い従者の手を取って歩く。
彼女がひとりで歩く事は稀である。
いつも誰かの手を取って、自分をエスコートする栄誉を与えていた。
それは自分自身と周囲に、そうされるのが相応しい存在であることを示す行為だった。
霧の中、男爵邸の門へと近付くと、何やら人がいてやり取りをしているようだ。
聞こえてくるその声はシュヴァルツ男爵夫妻のものである。
従者から事情を聞いたふたりが、アニカを心配して迎える為に門の外まで出てきたのだろう。
帰宅を告げに近寄ろうとした時、脚が止まった。
そこにいたのは両親だけではなかったからだ。
彼らはひとりの少女を相手にしていた。
少女は少し古めかしいドレスを着ている。
派手さはないが、仕立ての良いドレス。
アニカには、それに見覚えがあるような気がしたけれど思い出せなかった。
いつも彼女が着ているのは日本でいうゴシックロリータに似たもので、アニカ自身がハインミュラー商会にざっくりとしたデザインと好みを伝えて作らせているものだ。
他にないドレスを纏って社交界で自分のセンスの斬新さを示し、流行を作って利益を得る為でもあった。
元々ある窮屈な格式高いデザインのドレスを彼女は嫌っていたし、前世の日本の記憶を強く持つせいもあって、普通の令嬢が着ている昔ながらのドレスには見向きもしなかった。
だから、少女のドレスに見覚えがないのは当然だ。
よく考えれば、それは少々古風なデザインを好むシュヴァルツ男爵夫人がアニカの為に用意したもののひとつである事がわかっただろう。
だけれど、彼女は一度も手を通した事もなければ、気に掛けたこともなかった。
だから、気付けなかったのだ。
それがドレスルームの隅で肥やしとなっている1着であった事に。
何やら男爵夫妻が、少女に声を掛けている。
すると少女は夫妻に抱きついて二言三言、言葉を交わした。
と、そのまま踵を返して駆け出すと、霧の中へと消えてしまった。
全く訳が分からない。
「なんなのあれ?」
アニカは独り言ちると、男爵邸の門へと近付いた。
「ねえ、なにしてるの? パパ、ママ」
声を掛けると、両親は狼狽えたようにビクリと体を震わせた。
なにやら困惑した様子だ。
「何があったの?」
アニカは意外な事に、この両親を気に入っていた。
前世での親は、自分の事を嫌って他の兄弟と比べては貶していた。
役立たずだと罵ったり、口うるさく説教をしてきたり、いちいち気に障るものだった。
だから、邪魔な親も兄弟も早く死んでしまえと何度も願ったものだ。
けれどこの両親は、彼女を蝶よ花よと甘やかし、まったく行動を阻むことはなかった。
商才はないし愚鈍で金持ちでもないけれど、肉親の愛というものを十分に与えてくれる。
何をしても褒められ、苦言を呈することは一度もなかった。
まさに溺愛とも言うべきそれは、彼女にとってとても心地の良いものだった。
本来ならそれを受け取るはずの子供が、別にいたとしても気にもしなかった。
カッコウの托卵というものがある。
カッコウのメスは他所の鳥の巣の卵をひとつ取り除き、素早く自分の卵を産み付けてそれを巣の主に育てさせるのだ。
そしていち早く孵ったカッコウの雛は、その頼りない背に触れた孵化寸前の他の卵達を次々に巣の外へ放り出していく。
自身の居場所を守る為に。
カッコウの雛でさえ、そうなのだからアニカが罪悪感もなく振舞っているのは当然の事だ。
ここで餌をもらい羽を伸ばして眠って良いのは、自分だけなのだから。
その愛の宛先が違う事など、彼女にとって些細なことだった。
「ああ! 私のアニカ。おかえりなさい。大丈夫? 馬車が止まるなんて酷い目にあったわね」
母親が大袈裟に手を広げてアニカを抱きしめる。
「馬の機嫌が悪かったそうだな。新しい馬を買った方がいいかな」
その馬を買うのもアニカがハインミュラー商会と組んで稼いだ金や国からの賢者への報奨金であるのだが、金の出処など気にしない呑気な父親だ。
シュヴァルツ男爵は、オイゲンゾルガー伯爵と商才においてはそう変わらない無能者であった。
王国西部は元々温暖で、争い事も少ない土地であることも影響しているせいか向上心の欠けた貴族が多くいた。
競争心があまりないせいで経済の発展も緩やかである。
そのせいで商人達の発言権も強い。
それを嫌ったハイデマリーの父、レーヴライン侯爵は、厳格さをもって西部の貴族を締め上げてはいるのだが、長年の気風を変えるのは難問であった。
男爵家も負債がないだけマシというものだが、アニカはそれを許していた。
前世でホストに入れあげた彼女の性質が良い方に働いたとでも言うべきか、相手次第では寛大さをみせていた。
「それで、何があったの? さっきの子は誰?」
アニカが詰問すると、2人は顔を見合せて落ち着かない素振りを見せた。
「ああ、従者の知らせを聞いて、あなたを迎えにここまで出てきたら、知らない子が立っていたのよ。この霧でしょ? 背丈も髪の色も似ていたからつい、間違えてしまって……、あなたの名前で呼び掛けてしまったの」
母親の言葉に、アニカは嫌な予感がした。




