665話 無知です
そんな彼女が手放しで信じているのは、自分に溺れている男だけ。
もしくは、自分の事を手に入れようとしている男だけだった。
例外はあろうが、それが彼女の軸である。
そういう意味で、彼女はどうしようもなく「女」であった。
だからこそ、自分を女として見ることのない神など論外だ。
最初の内は、神が自分に熱を上げているかと錯覚もしたものだが、その口から出る言葉はとってつけたようなものばかりだし、さすがのアニカも考えを修正したほどだ。
この美貌の神が真摯にアニカを愛していたら、それはそれでハッピーエンドだったかもしれない。
アニカも手放しで魔性の魅力と奇跡の力を持ったこの神に溺れたに違いない。
だけれど違った。
神は確かに彼女を愛してはいたけれど、それは風に散る花弁を愛でたり、砂地獄から這い上がろうとする虫を健気に思い眺めるような愛だった。
もし足元の蟻を気まぐれに一匹拾い上げて手の平に乗せたとて、区別がつくようなものだろうか?
区別がついたとしても、せいぜい研究者が野生動物に識別札を付けて判別するくらいの認識ではないか。
数多の矮小な人間達を見て、ひとりひとりを判別出来る神はいるのだろうか。
手ずから育てた固体を特別扱いする事はあるだろうけれど、所詮存在として同等ではないのだ。
そういう意味では、黒い雄牛もまたどうしようもなく「神」であった。
自分に協力してくれてはいる。
前世から救い上げて、ここへ連れて来てくれた。
神がこうして世話を焼いてくれるのは、自分が特別な存在だからだ。
自分の前世が不遇であった原因がこの神にあって、その償いが今世なのだろうとまで考える事もあった。
神に奉仕されているのだから、神より偉いに決まっていた。
彼女の持つ歪んだものさしが、そうに決まっていると思い込ませていた。
常に自分が正しく、自分が報われないのならば、それは世界が間違っているに違いないのだ。
神を従えるというその万能感は、彼女の歪みを増長させるのに十分なものだった。
この神は、彼女が前の人生の傍若無人な振る舞いによる結果を直視する前に、後悔する隙を与えず今世へと逃がした。
反省も自身の行動を改める機会も、全て奪ったのだ。
追い詰められ屈辱に塗れた現実からの逃避。
それはとても楽な道で、一見「救い」のようにもみえる。
だけれどそれは、人の社会の中で生きていくのに必要な学びを得る事が出来なかったということだ。
彼女には成長の機会もなく、思うまま好きに振舞っても良いのだという認識が堅く刷り込まれていた。
もしまた手に負えない状況になれば、逃がしてもらえばいいのだから。
そう高を括っていた。
神に選ばれ世話をされる人間など他にはいないのだ。
不味い事に人を殺して世間に後ろ指をさされても、こうして別の世界で好き勝手に生きているのが確たる証拠であった。
それはまごうことなく、彼女が経験した成功体験なのである。
「私は身代わりとその連れを捕獲して移動したりと多忙だったんだよ? いくらなんでも見張りまでは手が回らないよ」
ハントはシレッと、そう言ってのけた。
実は食堂の外で蜘蛛の女と雑談しながらアニカに起こったひと悶着を眺めていたのだけれど、彼女にはそれを知る術はない。
「その連れって何よ」
「身代わりの騎士さ。 神話の生物の1種でね。あろうことか聖女の味方だったからこちらに引き込んだんだ。向こうの戦力が減るのは喜ばしい事だろ?」
「あのクズに騎士? そいつはかっこいいの?」
その言葉に青年は吹き出した。
「とんでもない! 見た目は犬人間といったところさ。聖女は、身代わり同様かわいがっていたけどね」
「はっ! クズと犬なんてお似合いね。ちゃんと躾なさいよ。私が頼んだんじゃないんだから、そいつの世話はあんたがするのよ」
「多勢に無勢の中、どうにか連れ帰ったというのに厳しいな」
そう零す姿さえ、溜息が出るほど美しい。
自分に従うのは美しい青年。
身代わりには人モドキの犬。
やはり自分は神に、運命に優遇されている。
そう思うと満更でもなかった。
彼女は何も知らなかった。
そのニセモノは、その人モドキから大事にされ心から慈しまれて愛情を注がれていることを。
彼女のいうホンモノである自分は、美しい青年からその欠片すら思われていないことを。
彼女は何も知らなかった。
主は与え、主は奪う。
栄光や富を与えて高みを味わわせてから、それを奪い取るとる存在がいるのを。
得てして信仰心を試す神の行為だが、ある人はそれを「呪い」と呼んだり、別の者はそれを行うモノに「疫病神」や「邪神」と名を付けていた。
彼女は何も知らなかった。
神は与えるだけではないということを。
「どこまで本当だか。あんたって肝心なとこでは役たたずなんだから」
「こんなに尽くしているというのに酷いな」
その台詞とはチグハグに彼の顔は、これ以上ない程笑っていた。
それは、これから起こる事を待ちきれないという笑顔だった。




