664話 従者です
「どういうことなのよ!!」
アニカ・シュヴァルツは親指の先を血が出そうなほど噛んでいた。
自分が有利な場所で老女に身をやつしたシャルロッテをじっくりと甚振る予定であったのに、王子の登場で何もかも台無しになってしまったのだ。
前々から楽しみにしていた分、苛立ちは積み上がり爆発する場を探していた。
今は敗走する馬車の中だ。
王族を前にしては逃げるしかない。
そもそも、ハインミュラー商会長が手を回してくれているお陰で、国の監査も対して入らない状態だった。
ましてや王族が足を運ぶなんて、初めてのことだ。
偶然にしてはタイミングが悪すぎる。
誰かが図ったのだ。
それはグンターからアニカの来訪を聞いていたスヴェンの画策であったのだけれど、彼女にそれを知る術はない。
誰かが自分を嵌めたという事実だけが確かで、それは焦燥を加速させた。
悔しくて悔しくて仕方がなかった。
物に当たろうにもクッションしかない車内では、爪を噛むしか怒りの発散のしようがなかった。
「わかるよ、まったくもって悔しいと言うしかない。不便な土地で頭のおかしくなった身代わりの世話をシャルロッテにさせて、懐かせたら取り上げるだなんてスパイスの効いたとても良い計画だったのにね」
褐色の肌の美形の従者は、うんうんと頷いてアニカに同調してみせる。
「あそこで王子が出てくるなんて、誰が想像出来だろう。彼女も悪運が強いものだ」
オーバーに肩を竦めてやれやれと溜息を付いた。
慰めたように見えるだけで、その実はどうか分からない。
その言葉はまるで舞台の上にいるかのように大袈裟で、心情をともなっていないかのようだった。
その上、目は弧を描いて笑っている。
アニカもそれには気付いていた。
「ハント! あんたに何がわかるっていうのよ!」
バシンッと音を立てて青年の頬を叩くと、少女は吐き捨てた。
青年は叩かれた頬に痛そうに自分の手を添える。
だけれどそれは、人は叩かれたらこういう反応するのだと再現しただけで、人真似をしている風であった。
なにかが、人の形を真似ている様な、そんな不自然さがあった。
「あんたがちゃんと見張ってないからよ!!」
ハントと呼ばれる青年の美しく整った美貌も、磨かれた黒曜石のような艶やかな肌もアニカには通じなかった。
連れ歩くのにはいいアクセサリーであるが、大抵フードを目深に被っているせいで見せびらかす機会は少ない。
そのせいでアニカからのハントの評価は下がっていた。
せいぜい、何でもしてくれる従者くらいの認識である。
彼女は自分に利用できるものと、そうでないものを選別する鼻がよく効いた。
彼女が嫌いな生き物は、自分よりもいい思いをしている女と、付け入る隙がない相手だ。
そういう意味で、この従者を好んではいなかった。
勿論、その青年が黒い雄牛と呼ばれる神の仮の姿であることはわかっている。
この神のお陰で前世の記憶を持ったまま、若く美しい身体を手に入れたことも。
不遜な彼女にとっては、神など願いを叶える道具でしかない。
神は、自分を魅力的な女として見ていない。
そんな相手は胡散臭くてならなかった。
何故なら、彼女にとっては性が価値観の大半を締めているからだ。
彼女の前世の成功体験は、大概が「女」で括ることが出来た。
大概の男は泣いて見せれば味方についた。
どれだけ嘘で固めて矛盾があったとしても、泣いていない女と泣いている女が並んでいれば心情的に泣いている女の味方をするのだ。
特に涙を見せることのないプライドの高い正論女が相手の時には効果を発揮した。
気が強く仕事の出来る女に普段から劣等感を持っている男達は、こちらが泣いていれば勝手に相手を糾弾しだす。
馬鹿な男は騙されているとも知らず、弱い女を装う自分を守ろうとするのだ。
手軽なものだ。
アニカは、女は自分の為の踏み台で、好いた男以外は利用するものでしかなかった。
その歪んだレンズを通して見る世界が彼女の全てだったのだから、この価値観を今世に持ち越していても何らおかしなことではない。
どれだけ歪んでいるかといえば、その成功体験の結果は総じて良好ではなかったのに、本人は成功したと捉えているほどだ。
相手を陥れた一時の満足感と達成感がそう勘違いさせていた。
長い目でみれば、その結果はまったく違ったものだった。
泣き落としで標的を引き摺り降ろしてその座を奪っても、自分の実力が伴わなければお察しというものだ。
男を寝盗ったとて、その男は別の女に寝盗られた。
そうでなくとも、しばらくすると話が違うと言って前の女に詫びを入れ元の鞘に戻ることもあった。
成功したのはいつも物事の前半であり、本人には見えていない失敗である後半とワンセットである事に気付けないでいた。
それは本人にとっては悲劇であり、同時に喜劇でもあった。




