647話 赦しです
何てことだ。
先ほどの態度は演技だったのだ。
私は脱力して膝をついた。
全部、彼の手のひらの上だったのだ。
ああ、私はどうやってもこの人に勝てない。
勝てないことに、安堵している自分がいた。
私が離れなければならない理由ないと、そう教えてくれた。
まだ横にいていいのだ。
そんなことに喜んでしまうのはいけないことかもしれないけれど、私はどうやっても敵わないのだから、仕方がないと自分をごまかした。
そうして、気付けば食堂の真ん中にいたことを思い出す。
騎士達はともかく、ここに残っていた面々も王子と老女の痴話げんかを目の当たりにして皆、顔をあげてぽかんとしていた。
そうよね。
私だってこんなの目の当たりにしたら、何が起こっているのか理解できないわ。
そして衆人環視の中で王子とあんな会話をしていたのだと思うと、じわじわといたたまれなさが湧いてきた。
「ロッテ・シャルルヴィルの正体は、聖女シャルロッテ・エーベルハルトなのだよ」
空気を読んだのか王子がそう皆に告げる。
どよめきが走る。
子供が食堂で料理していたのだなんて、信じられないものね。
言動だって年相応のものだったはずだし、誰も年長者だった私を疑わなかっただろう。
「今、彼女は神の御業により、この姿となっている。この忌まわしい鉱山で起きた殺人事件を解決するために遣わされた使徒なのだ」
勿論そんな事実はないけれど、王子がもっともらしくと言うと実はそうだった気になってくる。
策士の彼だもの、この場の人間を言いくるめるのは簡単なことだろう。
話を信じられなくとも、もとより王族に異を唱える者はいない。
そうしてアニカ・シュヴァルツが用意した舞台を、彼は自分のものにして納めてくれた。
王子の横に立つと、ますます自分のみすぼらしさが気になって、身を隠したくなってきた。
勢を尽くした服装をしたいとか、着飾りたいとかそういう意味ではなく、純粋に最低限でいいのできちんと身だしなみをしたかった。
髪は引っ詰めているし、大きな鏡に姿を映して身支度なんてここでは無縁なことだった。
きっといろいろと気付かない荒もあるだろう。
服もくすんだ古着で、キラキラとした王子の横にいるのが不釣り合いで恥ずかしい。
外見主義ではなかったのに、無性に侯爵令嬢の姿に戻りたくなっている。
いろいろ誤魔化して見たけれど、どうやら私は王子には綺麗な姿だけを見せたいようなのだ。
いい歳をして何て浅ましいと思いつつも、それを自覚してしまうと恥ずかしくて隠れたい気分になった。
「大丈夫かい? シャルロッテ」
顔を伏せた私を王子が覗き込む。
ああ、さっき提案してくれたベールが、今あれば気にせずいられたのに。
「……あまり見ないで下さい。私、おばあちゃんなので」
さっきまでの威勢も無くして、小声でごにょごにょとしか言えない。
「いいんだよ。中身が君なら、それでいいんだ。今の君も、令嬢の君もどちらも同じだ」
この人は、まだ子供だから呑気に言ってられるのよね。
今はその言葉に甘えるしかないけれど。
私が何を言っても勝てないのだから、この先はなるようになるしかない。
寛容なんですねと、私は言おうとしていた。
「私が薄情で冷たい人間でもですか?」
口をついて出たのは、自分でも意外な言葉だった。
「私はそうは思わないけれど、自分の事をそう思っているのかい?」
王子の言葉を遮るように続ける。
「いい人でなくても、許してくれますか?」
こんな事を言うつもりは全くなかったのに、私はそれを問わずにいられなかった。
前世の私は、ずっと善い人であるように勤めていた。
人を声高に糾弾する事もなく、平穏に暮らす為に目立たず大人しく過ごしていた。
心に鬱憤があっても表には出さずに隠して生きていた。
でも本当は素直に心に従って、怒りたかったのだ。
無礼な人間に言い返したり、あまつさえ無体なことをする男をザルでぶってすっきりしたかった。
本当はいい人でいたくなかった。
私は単に自分に対して、いい人ぶりたかっただけなのだと今更ながら気付いたのだ。
「私が君を好きなのは、いい人だからという理由ではないよ。マイペースで考えなしだったり、無茶をするのに変に大人びたところがあったり、そういう君らしさが特に好きなんだ」
「考え……、なし?」
私ってそんなかしら。
悪口を言われたようで、そうではなくてなんだか混乱した。
「それに私が許すも許さないもない。君はそのままでいいのだよ」
ぱりんっと薄氷が割れるような感覚に襲われる。
それは忘れていた記憶。
忘れたかった記憶。
赤い赤い血のような赤い髪。
王都を恐怖に陥れた卑劣な男。
私は、赤毛の男の懇願を聞き入れず、死なせたのだ。
大事な人達に手を出されて怒った私は、赤毛の男に救いではなく死を与えた。
その男の名はルフィノ・ガルシア。
悪徳の神を身に降ろした噛みつき男。
彼の記憶が、私の中で蘇る。




