643話 いない者です
「この国では異国からの移住者は申告の義務がある。あなたの名前はどこにもなかった。法を知らない者にとっては、あってないような決まりだけれどね。村や町に紛れ込む流民ならともかく、貴族の子供に仕える貴婦人が申告していないなんて考えられないと思わないかい?」
私は何も答えられなかった。
それはもっともなことだもの。
「もうひとつ加えるならば、この国の貴族の嫡子は、届け出がされている。廃嫡して家門から追い出すなんて、社交界を揺るがすお家騒動もいいところだ。だというのに、あなた達の事をこの鉱山以外では誰も知らないのだよ。それもそのはず、この国のどの記録を見てもそんな事は起きてはいないのだから」
やられた。
彼は全部調べた上でここにいたのだ。
相手は貴族の社会を知らない庶民ではないのだ。
こんなガバガバな設定が今まで取りざたされなかったのは、相手が無頓着か法に明るくない相手だったからだ。
ラムジー達の犯罪はともかく、事前から私の身元を怪しんで便乗して調べるつもりだったのだろう。
あの意地悪な質問は、私が自分から身元を明かすかどうかを計る試金石だったのだ。
「記録上に限って言えばロッテ・シャルルヴィルなる者は、この鉱山に現われるまでどこにも存在しなかったのだよ」
緊張が走る。
周りの皆も私になにがしかの不正がある事を知って、とばっちりを食わないように固唾を飲んでいる。
ここから逃げることなんて出来やしない。
逃げ去ろうにもあっという間に捕まってしまうだろう。
鉱山は今や王太子の護衛の騎士が制圧しているのだ。
ああ、カトリンと一緒に馬車に乗るべきだった。
アニーが消えたのに、何故私はここに戻ってしまったのだろう。
どうしたら私が他国からの間者でも、どこかの詐欺師でもないとわかってもらえるだろうか。
いっそのこと打ち明けてしまう?
でも、私がシャルロッテ・エーベルハルトだとどう証明すればいいのだろう。
老いた女が実は少女だと、しかも侯爵家の令嬢だと言い張る?
最悪、頭のおかしい老女だと思われて修道院か救貧院に押し込まれるに違いない。
アリッサに証言してもらうにしろ、外見がこれではどうにもならなそうだ。
ギルベルトなら信じてくれそうだけれど、例え身元が確認出来てもこんなこと公には出来ないわよね。
「あなたの料理はこの西部で噂になっているね。それだけの技術があって、これまで一切評判が立たなかったのは不思議というものだ。あなたの言う通りどこかの家門に仕えていたのなら、尚更その腕を主人は宣伝してみせたろうに。あなたは、まるで突然降って湧いたようだ」
平伏す私に影がかかる。
王子が目の前に移動してきたようだ。
いくら老女相手だといっても不用心ではない?
もし、私が暗殺者だったりしたらどうするつもりなのか。
いや、そんな事を考えている場合じゃない。
王子に偽証したのだから、投獄は免れない。
「顔をあげて」
その言葉に、もう抵抗する気力はなかった。
キラキラと光る金髪に端正な顔立ち。
鉱山では目に入る全てのものがくすんでいて、見慣れたはずの彼の顔が新鮮に感じた。
「申し開きはあるかい?」
「……なにも」
そう、私は自分を説明する言葉をなにも持ち合わせていなかった。
これから牢屋暮らしかしら?
無くした記憶が戻らないと魔術は解けないのだっけ?
いや、黒い雄牛様は記憶を無くしてるからつまらなくて私にかけた魔術を解かなかったのだ。
面白ければ解いてくれたのかもしれない。
ふざけすぎてない?
でも、それっていつのこと?
そもそも私を元に戻す気はあったのだろうか。
それにしても、この先どうなるのだろう。
こんなに平凡で老いた姿を彼の前に晒すのは、なんだか気恥しいというかバツが悪かった。
服は上等な物ではないし、髪の手入れだって満足に出来ていない。
でもまだここでは、お風呂があるだけましだわよね。
それでも廃坑に入ったり洞窟を抜けたりしたから埃っぽくなっている。
身嗜みをないがしろにした覚えはないけれど、食堂に入る前にちゃんと整えておけばよかったと後悔した。
せめて身なりだけでも綺麗にしておきたかった。
「では質問をかえようか、ロッテ・シャルルヴィル。まるで誰かの名をもじったような字面だ」
じっと私を見る青い瞳が笑っている。
先程までと違い揶揄うような口調だ。
彼は何を言いたいの?
「料理の知識が豊富なシャルロッテという名前の侯爵令嬢が身を隠した後に、交代するように現れたあなたは一体何者なのかと聞いているんだ」
王子は笑っている。
それは、私にだけ見せる少年の顔だ。
それを見て目に涙が溢れた。
彼は意地悪なのだ。
そう、優しいのにたまに子供っぽくて意地悪なのだ。
「……、どっ、どうして」
知っていてこの状況を楽しんでいたのだ。
私がナニであっても見つけてくれる人なのだ。
「さあ、手をとって。私の聖女様」
王子が私の顔を覗き込みながらそう言った。
周りが驚いてざわついている。
食堂の手伝いが聖女だなんて誰も思わないものね。
見つけてもらえた安心感が大きくて、そんな声は私の耳には届かなかった。




