641話 野外です
どうやら王子のお陰で、命拾いをしたようだ。
いろいろなことが起こりすぎている。
アニー達との別れの感傷にひたる暇もない。
それなのに気が抜けると、どうでもいいようなことが気になってきた。
例えば食堂を様変わりさせたアニカの為に運び込まれた家具。
これらをちゃんと引き上げてくれるのかどうかとか、鉱夫達の今日の仕事はどうするのかとか、他愛のない事柄。
その他愛なさを感じることで、深刻になりすぎないように精神がバランスをとっているのかもしれない。
害にならない一見つまらない日常のようなものが助けになる時もあるのだ。
とにかく食事の仕込みもあるし、このままでは鉱夫達は外で食事をする事になってしまう。
アニカの家具を勝手に運び出して、後から文句を言われたらたまったものじゃないもの。
でもそうね、たまには野外で食事をするのもいいかもしれない。
気分転換にもなるし、今日のように非日常な事が起った夜には相応しいではないか。
薪を組んで大きな焚き火を作って、皆で取り囲む。
キャンプファイヤーみたいで想像するだけで楽しそうだ。
大鍋で熱々のスープを配って胃を温めて、串うちした肉を火に炙って酒のつまみにするのだ。
そうするなら、早めにハーブとオイルで肉をマリネにしておかないと。
パンには火にかざして溶かしたチーズをとろりとかけたら格別な味になるだろう。
ジャガイモや人参などをそのまま焚火のふちに埋めて火を通すのも野趣溢れていて面白いわよね。
リンゴの芯をくり抜いてシナモンとバターと砂糖を詰めて焼きリンゴにするのもいい。
悪者が捕まったのだから、お祝いのお祭りみたいで悪くないわ。
皆、今後の身の振り方を考えないといけないけれど、今晩くらいは気楽に騒いでもいい気がする。
この先朧水晶を求めてまた鉱山を掘り返そうとするかもしれないけれど、それにはかなりの労力が必要になるはずだ。
既にあった使われなくなった坑道の先で朧水晶の鉱脈を見つけるのと、崩れて潰れてしまった坑道を掘り直して朧水晶を見つけるのは難易度はまったく違うはずだ。
正確な場所を知っているのはアニカとグンターとラムジーの3人くらいだと思うけれど、彼らは専門家でもないし正確な場所を示しようがないのではないだろうか。
精密な計測器があるわけでもないし、時間も資金もかなり必要だろう。
新しい領主がどこまでやるかは分からないけれど、いつ見つかるか埋蔵量もわからない朧水晶よりも領地内を整地して地道に農業や牧畜に注力して地盤を固めるのが先だろう。
オイゲンゾルガー伯爵がそれを出来なかったのは、その資金がなかったからだ。
朧水晶での利益も夫人とアニカの散財とグンター達の横領もあって、はたで見るよりも儲かってはいなかったのかもしれない。
そもそも彼らは儲けと希少性を考えて、市場に流す朧水晶の量を絞っていたはずだ。
実際に水晶の棲家を見た訳でもないなら、そこ程量のとれるものではないと周りも思っているだろう。
それがグンター達の狙いでもあった訳で、その工作が最終的に朧水晶の再発掘を諦めさせる役に立つなんて皮肉なものだ。
すぐに手に入るかも分からない朧水晶に資金を集中させる程、能天気な領主はいないだろう。
せいぜい専門家の元、何人かの鉱夫を雇って鉱山調査するくらいが関の山だ。
そうして何年か調べて朧水晶が見つかることがなければ、ここはまた廃鉱に戻るのだろう。
クロちゃん達が暴れたお陰で夫人は大人しくしていてくれるだろうし、そうしてここは静かな場所に戻るのだ。
元々ここに住むジーモンは、このまま居住権を継続出来るだろうし管理役として山の手入れを引き受ければいい。
スヴェンが口添えしてくれるといいのだけれど。
ジーモンは野蛮なグンター達に暴力を振るわれてもこの山から逃げなかった。
それほど、代々暮らしたこの鉱山を離れがたいのだから、そうなれば本望だろう。
「ええと、そこの女性よ。名乗ってもらってもよいかな?」
平伏したまま思いに耽っていると、王子から声がかかった。
先程のアニカとのやり取りは単なる口実だと思っていたけれど、私に何か用があるのだろうか。
「フリードリヒ王太子殿下に、ご挨拶申し上げます。ロッテ・シャルルヴィルでございます」
「あなたは、なかなか創意工夫に富んだ料理を作ると評判になっているね。ああ、顔を上げていいよ」
王子からの許しが出たからと言って、なかなか顔を上げる勇気が出なかった。
侯爵令嬢とは全くの別人になった今、平凡な自分を彼の目に晒すのが嫌だった。
知らない人間として彼に扱われるのが嫌だった。
会う機会などないと思っていたのに、こうして現れるなんて。
顔を合わせずにすめば、道を違えてしまうことへの辛さと寂しさに気付かなかったかもしれないのに。
「私のようなものが拝顔の栄に浴するなど畏れ多いことでございます。どうかこのままでお許し下さいませ。先程はシュヴァルツ男爵令嬢からの無体から助けていただき感謝申し上げます」
私は、どうしても顔を見たくなかった。




