634話 立場です
私を拘束する者はもういなかった。
静かに起き上がってスヴェンを見る。
猫背だった彼は、その背を伸ばすと長身で体のバランスも悪いものではない。
ずっと姿勢が悪く痩せぎすで弱々しい青年だと思っていたのに、そんなことはまったくなかったのだ。
人の思い込みとは怖いものだ。
今は、所作もしっかりとしていて別人のようにみえる。
騒めく人々の戸惑いをよそに、本人は何処吹く風といった様子だ。
服装はいつも通りの質素なシャツとパンツだが、その佇まいはどこか気品も感じる事が出来た。
それは一朝一夕で身に付くものではない。
信じられないけれど、これが本来のスヴェンの姿のようだ。
彼は、庶民としては珍しく読み書きも乗馬も出来ていた。
それに剣術が使える事も、今、証明してみせた。
そして人の手を自らの剣で切り落としても取り乱したりせず、冷静なままでいる。
きっと、なにがしらの訓練を受けた貴族の子息で間違いないだろう。
不思議に思っていた娼婦のお姐さん達に気に入られているという話も、さもありなんという訳だ。
偉そうにしている鉱山の男達が知らない一面を、彼女達だけが知っていたのも皮肉なものだ。
彼女達は寝台で、彼本来の男振りを知っていたのだ。
だとすると、今までの弱々しい彼は演技ということになる。
何の為に無力な青年を演じていたのか。
貴族の子息といっても裕福な家門でなければ、跡継ぎ以外は身を立てるのに大変だという。
どこかの貴族に婿入りや養子に入るか、騎士か文官になるしかない。
成人するまでにその機会に恵まれなければ、普通の庶民としての生活が待っているのだ。
高賃金の鉱山で雇ってもらう為に、庶民を装っていたのだろうか。
居丈高なグンターは、鼻に付く貴族の令息など雇わないだろう。
自分が一番でいられて当たり散らせる人間を選ぶに違いない。
そう思うと、ここで働くために身分を隠して弱弱しくみせかけるのは、理解出来ないことではなかった。
わからないのは彼の演技はやりすぎな程徹底していたのに、ここに来てそれを投げうってしまったことだ。
「あんた、一体何なの? 私に少しでも何かしたら、打首にしてやるんだから」
スヴェンに武力が通じないと判断したのか、アニカはもう他の男をけしかける事はなかった。
予想外の存在に少しひるんではみせたが、彼女のその口調はふてぶてしいままであった。
スヴェンは、ひゅんっと剣を大きく振り血糊を振り払う。
その飛び散った血が床や壁を汚した。
「賢者様に何かするなんて大それた事、考えるはずもないですよ」
そのまま剣を鞘に納めると両手を広げて、しれっと言ってみせる。
ロルフも気の毒に、後の掃除が大変そうだ。
アニカが私を見つけてしまった以上、掃除の手伝いは出来そうもない。
「ふうん」
アニカが、見定める様にスヴェンを眺める。
「そう。なら私に付きなさいよ。そこのおっさんは使い物にならないし、あんたを雇ってあげる。まずは鉱山支配人にしてあげるから、そこの女を縛り上げてよ」
アニカの言葉を聞いた後、スヴェンが私をじっと観察するように見てきた。
彼は自分の正義感によって助けに入ったのかと思ったけれど、本当のところどうなのかしら。
想像通り貴族子息であっても、鉱山で働く身なのだし出世は望むところなのではないだろうか。
賢者の不興を買えば、彼の家門にも影響があるだろう。
私の戸惑いを見抜いたように、スヴェンの口元に笑みが浮かんだ。
「ロッテさん、命乞いはしないんですか?」
失礼なことだけれど、その落ち着いた口調は、どうにもスヴェンらしくなくて心地が悪かった。
私が元貴族だからとあたふたしていた初対面のアレも、全部演技だったのだ。
ところどころ不自然な事はあったけれど、すっかり騙されてしまったわ。
彼には彼の考えがあって、そうしていたのだから別に不満はないけれど、少し寂しい気がした。
どうやら私は、気弱ながらに横暴な上司に振り回されながら奮闘する青年を気に入っていたようだ。
「命乞いなんて大袈裟ね。縛られるくらいじゃ、人間死にませんわ。それより、命に背いてあなたが罪人にされる方が嫌だわ。賢者様の言う事を聞いて下さいな」
私は捕縛しやすいように、両手を前に差し出した。
あら、これは手錠をかけられる犯人の仕草ね。
サスペンスドラマとかでよくあるやつだ。
こんな時に前世のテレビの影響が出るなんて変な感じだ。
これは、こちらの世界でも通用するのかしら?
「命に背くと言っても、僕を雇ってるのは彼女じゃないんです」
スヴェンの言葉に引っかかりを覚える。
では誰が雇い主だというのだろう。
見た通りならグンターだけれど、雇い主を切ってしまったわよね?
オイゲンゾルガー伯爵の事かしら?
でも彼は鉱山を嫌っていて、支配人にすべてを丸投げしているも同然だ。
まさかハインミュラー商会長ではないだろう。
取り合えず賢者にはつかないと言うことかしら?
でも、そうしたら彼の立場はどうなるのだろう。
この鉱山の関係者は皆アニカ・シュヴァルツに頭が上がらないはずだ。
「あんた! 私に逆らったら、ただじゃおかないんだから!」
思う通りにならないからと知ってか、アニカが怒鳴り散らす。
「ただじゃおかないって、どうするつもりなのか聞かせてもらえるかな?」
食堂に涼やかな声が響いた。




