629話 給仕です
「評判の賢者様とお話し出来るなんて、畏れ多くて言葉が出ないというものですわ」
どうすればこの場を切り抜けられるか思案してみるも、後ろ盾の無い私にはどうする事も出来ないのだ。
グンター相手には、オイゲンゾルガー伯爵を利用出来たけれど、当の伯爵はアニカ・シュヴァルツに頭が上がらないときている。
私に出来るとこは、せいぜいが隙をみせないくらいだ。
「ふうん、まあいいわ。ああ、ねえ。私喉が渇いちゃった。葡萄ジュースの瓶を持ってきてあるから、注いでちょうだい」
若い男がサッと用意をしようとするのを、アニカは止めた。
「私は、あの婆さんに頼んだのよ」
きつい怒気を含んだ声に、男の顔色が悪くなる。
男は私に駆け寄ると、ジュースの瓶と杯を盆に並べて差し出した。
ああ言われたら、使用人である私は言うことを聞くしかない。
観念して給仕する事になった。
持ち込まれた杯は真鍮製だろうか?
表面には繊細な模様が施されていて、美術品と言ってもいいとても目を惹く一品だった。
盆も同じ造りでセットになっていて、かなりの重さになっている。
そこに液体の入った瓶も載せるとなると、運ぶのもやっとだ。
その重さで、手が震えてしまう。
こんな嫌がらせの仕方があるなんて、悪知恵が働くのね。
盆をひっくり返した私を鞭打つか、杯に傷をつけたと難癖をつけるかする気なのか。
とにかく落とさなければいいのだから、慎重に気を張って彼女の前へと運ぶ。
今日ばかりは食堂の広さが恨めしい。
何とかテーブルにたどり着く事が出来た。
盆を置いて、零さないように瓶から慎重にジュースを注ぐ。
給仕と言っても、それだけのこと。
これといって技術が必要な事はひとつもない。
そうね、筋力は必要だったわ。
問題なくその場をやり過ごして、ほっと胸を撫で下ろす。
期待通りにならなかったのが不満なのか、アニカの口はへの字になっていた。
せっかく可愛らしい顔をしているのに、台無しだわ。
礼をとって下がろうとした時に声がかかった。
「ねえ、それ拾って」
その言葉に床を見ると、アニカの足元にはいつ落としたのかハンカチが置かれていた。
ぽたたっ
かがんで手を伸ばすと、私の頭を何かが濡らした。
見上げると、アニカが杯を傾けて私に中の飲み物をかけているところだ。
汁が目に入り思わず目を瞑ると同時に、脇腹に衝撃が走る。
どうやら蹴られたようだ。
少女の蹴りは鋭いものではなかったけれど、私の体のバランスを崩すのには充分だった。
床に手をついて四つん這いになる。
私の髪は、葡萄汁で濡れて床に小さな水たまりを作っていた。
周りがざわつく。
「手が滑っちゃった。足もね、滑ったみたい。許してくれる? まあ、許す許さないもないか。使用人のあんたは私を許すしかないものね」
エプロンの端で顔を拭いて目を開けると、悦に入った顔で、杯の淵をペロリと舐めるのが目に入った。
「ロッテ婆さん!」
ロルフが駆け寄ろうか躊躇していた。
彼にはこういう場合どうしていいかわからないのだ。
動揺する彼を手で制止する。
大丈夫、こんなの痛くも痒くもない。
彼女は私を貶めて楽しみたいのだ。
それに付き合う事は無い。
「杯が賢者様の手には大きすぎたのかもしれないですね。老婆心ながら、子供用の杯を用意するのをオススメしますわ」
私は顔に伝うジュースを気にせず、にっこりと笑ってみせて、拾ったハンカチを丁寧に畳むと机の上に置いた。
「子ども扱い?」
アニカが私の態度に腹を立てたのか、今度は杯を私に向かって投げつけた。
やはり真鍮グラスは彼女にとって重いのか、私には当たらず足元にゴツンと重い音を立てて落ちた。
これにはさすがに周りの野次馬達の目にも余るようだった。
「婆さんが何したってんだよ」
「ちょっと酷い。なんなのあれ?」
「賢者様って……、こんな人だったの?」
ヒソヒソと憤りや同情、そして幻滅した声が静かな食堂を満たしている。
「あんた達、誰に断って喋ってんの?」
アニカがそう言い放つと、それも静かに収まった。
この喧嘩を買うべきかどうか。
買わない方がいいのは明らかだ。
彼女が、私からのアクションを待っているのは違いない。
思えば、私は悔しい顔をするべきだったのだろうか。
何かを言い返してもやり返しても、いい結果は訪れないのは目に見えている。
だけれど、それではアニカは満足しないのだ。
せめて彼女の溜飲を下げる為に、惨めに振る舞った方が良かったのかもしれない。
それがわかっていても、そう出来るほど私は器用ではなかった。
「そういえば、あの愚図の面倒、見てくれたんだって?」
私は最初、アニカの言っている意味がわからなかった。
「愚図?」
「言葉もわかんなくなっちゃって、動物と同じだったでしょ。随分可愛がってたっていうけど、ペットとしては才能があったのかしら?」
信じられない。
この子は何を言っているの?




