621話 急転です
「やあ! しゃう! グーちゃ!」
アニーが怖がるのが楽しくなってしまったのか、雄牛は勢いづけて彼女を高々と持ち上げた。
まるで、食堂でのあの鉱夫達のようだ。
「やめなさい!!」
そう叫んだその時、雄牛は動きを止めた。
怪訝な顔をして、何度も瞬きをしてまじまじとアニーを見ている。
それは、いつも悠然としている彼が初めてみせた人間っぽい行動だった。
私の静止に応じた訳ではない。
雄牛はアニーに何かを見たのだ。
それが彼を止めている。
「信じられない。先程は見間違えかと思ったけれど、これは……」
そう誰に言うともなく呟くと、壊れたように笑いだした。
あー!はははは!
ははあは、ははは!
いーひひひひ!
きーひひひひひひひひひひ!
ひゃははははは!
ぎゃはははははははは!
それは異様だった。
この男は、人の目を気にせずに心の底から笑いたいだけ笑っていた。
面白くて堪らないというように声を上げて、身を剃り返して体全体で笑いを表現していた。
或いはその記憶にある人の笑いを、自分の体で再現してみせていたのかもしれない。
そのうちに息苦しくなったのか、ぜひぜひと呼吸を乱してそこでやっと笑い声を止めた。
「まさか、まさかね。ああ、これは私の負けだ。こんな幕引きだとは。全てが台無しになるなんて。こんな事になるなんて誰が想像したものか。忌々しい黒山羊の導きか、それとも我が父の夢の合間の気まぐれな長い手が届いたとでも言うのだろうか。こんなに驚いたのは久方ぶりというものだ。そうだな、褒美を何か考えてあげよう」
そう独りごちると、先ほどまでとは打って変わった紳士的な態度でアニーを丁寧に床の上に立たせてから、グーちゃんを手招きした。
「この幼気な少女の守り手よ。その意志を尊重しようじゃあないか。何もしないから、少しこちらへ来てくれるかな? 悪い話ではないよ」
訝しげながらも、アニーを護るように近付いたグーちゃんに雄牛は何かを耳打ちをした。
ぼそぼそとこちらへは聞こえない小声で、何度か言葉を交わしている。
するとグーちゃんは大人しくアニーの横に立ち、黒い雄牛と並んで、こちらを向いた。
何が起こっているのか私にはわからなかった。
「シャウ、お別れでし」
グーちゃんは、きっぱりとそう口にした。
え?
何?
何を言っているの?
あまりにも急な事で頭が混乱している。
グーちゃんは、アニーの手をとった。
「グーちゃんも、行くだしよ」
「……ん」
「シャウは一緒にはいけないでし」
「しゃうー……」
アニーが戸惑いながらこちらを見る。
「グーちゃん、行くってどこに?」
声が震える。
あなた達は私と一緒に街に降りて、のんびり暮らすのよ。
陰謀も策略もない場所で、誰にも注目されず誰かに虐げられることなく平穏に過ごすの。
無意識に手を伸ばした。
それは彼らには届かない。
「こいつと行くんだし」
その言葉には、固い意志が感じられた。
「何を急に……。黒い雄牛様、一体何をグーちゃんに吹き込んだの?」
雄牛は涼しい顔をしている。
「吹き込んだだなんて心外だなあ。ふふう、一体なんだろうねえ。今は内緒にしておこう。多少はやきもきしてもらわないと、私もつまらないからね。少しばかりの意趣返しさ。いつか、わかる日が来るかもしれないよ」
「そんな……。わ、私も一緒に……」
付いて行きたいと思いながら、足は動かなかった。
仔山羊が私を見上げていた。
また置いていくの?と問われているかのようだった。
「シャウはダメだし」
「しゃうー、めなの」
2人は結託したように私に向かって拒否を示した。
何故、私はだめなの?
一緒にはいられないの?
何か嫌われることをした?
それとも脅されているの?
いろいろな考えが浮かんでは消える。
「シャウ、またでし」
「しゃう、だいすき」
それぞれが言葉をくれた。
これが別れの言葉だというの?
私はなにも言えずに立ち尽くしていた。
何か、何か言わないと。
返事をしないと。
「……待って!」
「では、行こうとしよう」
そういうやいなや、雄牛は2人に覆い被さると同時に姿を消した。
「もう、いいよ」
その黒い雄牛の言葉が、姿の消えた空間に遅れて響く。
すると同時に固まっていたアリッサが動いた。
「また! あいつ、次は見てなさい!!」
顔を真っ赤にして怒っていたが、それは長く続かなかった。
最初は微かな振動だった。
「この揺れは……。あんた達! ここから早く出るのよ!」
ガラガラと、音を立てて岩が落ちてくる。
アリッサの機敏な誘導で坑道へ出たと同時に、天井が崩れて水晶の棲家の扉と坑道の入口への道が埋まってしまった。
水晶の光も瓦礫に埋もれたせいで届かない。
手燭も中に置いて来てしまったし、先程までの光に慣れた目は、暗闇に囚われて何も見えない。
不安に思っていると仔山羊がペロリと手を舐めて存在を教えてくれた。
頭の上には小鳥の重みを感じる。
こんなに小さくても私を守ろうとしてくれたのだ。
彼らは私の側にいてくれるのだ。




