616話 善悪です
サリサリと仔山羊が私の手を舐めた。
小鳥も肩に止まって、頭を押し付けている。
ずっと失っていた感触。
私は、前に聞いたグーちゃんの言葉を思い出していた。
ぐーうは魂が分かるから、外見が変わっても中身の見分けがつくという話を。
彼らもそうなのだ。
私が何であっても、どれだけ違っていてもわかってくれるのだ。
久々に感じる小さな彼らの温かさが懐かしくて仕方がなかった。
彼らを撫でてこの再会を噛み締める。
「あんた達! 気持ちはわかるけどお嬢様に甘えるのは後にしてよ!」
私達の様子を半ば呆れながら見ていたアリッサが叫ぶと、2匹は名残惜しそうに離れて私達を守るように前に出た。
「ソれをどカして! 何を連レてキたの!!」
それは怯えていた。
夫人の焦る声が響く。
無数の水晶の触手が床を叩くが、それは先ほどまでとは打って変わって消極的な威嚇だった。
まるで、クロちゃんとビーちゃんに触れるのが禁忌であるかのように、彼らに当たらないようにその触手は憤慨を当たり散らすかのように床を打ち付けている。
どうやら彼らが苦手なようだ。
水晶の触手は彼らに任せてアリッサに事情を説明する。
「ここにいると人はそのうち、水晶になってしまうらしいの。この子の手当てもしないと。時間がないのよ」
「また変な事に巻き込まれて……。まあ、全部あの雄牛のせいなんでしょ。ちょっと見てみましょうか。ああ、表皮が削げて肉が見えてますね」
アリッサはグーちゃんからカトリンを受け取ると、クロちゃんを手元へ呼んだ。
身軽になったグーちゃんは、ひらりと宙を舞いその鉤爪で手当たり次第に水晶を削り始めた。
ガガガガガッと辺り一面に工事現場のような破壊音が満ちる。
まるで破砕機のようだ。
どうやら彼なりに腹に据えかねていたらしい。
そして小鳥の羽が起こした風が、その破片に吹きかかると、あの魅惑的な輝きが失せていた。
「ナにを! なにヲしたの!!」
悲痛とも言える夫人の叫びを無視して、美しい水晶の棲家はどんどん荒らされていく。
仔山羊はというと、アリッサの膝にのせられたカトリンのむき出しになった肉の表面を舐め始めた。
はたから見たら仔山羊がまるで女性を捕食しているようにも見えるかもしれないが、そうではない。
舐める度に、彼女を侵食しようと蠢き埋まっていた水晶の破片が消えていく。
同じようなことを見たことがある。
あれは偽の浄化の儀式の時に、ハイデマリーの腕を侵した高慢の種の根の跡を消したのと同じだ。
傷を癒す訳ではないけれど、そこに刻まれた怪異の残り香をクロちゃんは消しているようだ。
カトリンの傷口を仔山羊が清めると、どこから出したのかアリッサがシュルシュルと白い布を出して傷を保護してくれた。
よく見れば、それは布ではなく蜘蛛の糸である。
普段は人と変わらないけれど、彼女は蜘蛛の怪異なのだ。
糸の使い方も弁えたものなのだろう。
クロちゃんのお陰なのか糸の効果なのか、ともかくカトリンの顔色が心做しか良くなっていた。
頼もしい。
その頼もしさが、先程までの絶望を拭ってくれる。
「ヤめてえ! やめめめメでえェ!」
喚き声がこだまする。
ビーちゃんの羽ばたきが、水晶からその輝きを奪っているのは明白だった。
勢いが増していく羽ばたきのうねりが撫でたところから、ただの水晶にかわっていく。
いや、水晶というにはヒビが入り、くすんで濁って灰色めいていて、それはただの石というほうがいいかもしれない。
「奪ワないでえええ! 殺さないでエエえ!」
夫人にとっては、その輝きを失う事と死は同じもののようだ。
もしくは、朧水晶のその砕かれた破片までもすべて生きて意志を持っていて、それが小鳥の風により喪われているのか。
どちらにせよ朧水晶は、光をなくして文字通り、路傍の石と変じていっている。
夫人のその叫びは、与えられた至高の地位を奪われて他愛のない存在に落とされたような、そんな悲壮感を含んでいた。
魔法が解けるのを駄々を捏ねて拒否する子供のような悪あがきにも見える慟哭。
この大量の水晶が人の意志と命を継いでいるとして、それを壊してしまうのは殺人とどう違うというのだろう。
もしかしたら水晶を守ろうとしている夫人の方が人として正しいのかもしれない。
けれど、今、自分が生き残る為には綺麗事を言ってはいられないのだ。
どこまでが人間で、どこからが人外なのか。
元が人であったら?
人の言葉を操れたら?
どこからが罪で、どこまでが罪でないのか。
罪自体も人の社会が決める事で場所によってマチマチだ。
罪や罰は社会を円滑に回していくルールであり、本当の罪とは本人と神にしかわからないものではないだろうか。
文化が違えば何もかも異なるのに、自分自身が前世の価値観に囚われて息が出来なくなってしまいそうだった。
私はこの世界で生きているのに前世の定規を振りかざして、自分の首を絞めていた。
結局、何が良いか悪いかなんて誰にも決められないのではないか。
神にとっては人の善悪など、どうでもいいのかもしれない。
ちっぽけな人の掲げる善悪など、神になんの影響も与えはしないのだから。




