63話 論文です
そういえばどこかで見た名前だと思ったのだが、カントリーハウスの図書室で読んだ学術誌だったような気がした。
魔獣や魔法がよくわからなかったので論文まで読み漁っていたのだ。
「あの『白綿虫と冷害』の論文をお書きになったのはギル様ですか?」
「おお、ご存知でしたか?私なんぞに様をつけなくてもいいですよ。落ち着きませんし。この研究棟を借り続けるのに何年かに一度は有用性がある論文を提出しなければならなくて、3年ほど前に書いたものですが私などが書いた論文に目を通す人は少なくて学会の方では鼻にもかけられなかったのですが」
ボリボリと伸び放題のボサボサ頭を掻いて言う。
「嘆かわしい事ですが学会も貴族とは切り離せませんので、この様な変人は見た目ともども門前払いのところがあるのですよ。席は置いても目に掛けないというようにね。その上ライフワークが人が避ける神話生物ですし、巷では彼の事を研究者なのか呪術師なのかと疑う者もいます。ただ古来から人と神話生物の関係は良いものばかりではないので、それを取り扱う学者は国としてはありがたい存在なのですがね。ともあれ桜姫もよくあんな地味な本を読む気になれましたね。もうちょっと娯楽がある文章なら人気が出ると思うのですが」
詩人は地味な本といいながら自分も手にしたのだろう。友達思いなのか勉強熱心なのか。
「口伝で残っている魔素を多く取り込むことで虫が低く飛ぶという検証がとても興味深かったです。私は世間を良く知らないので勉強になりました」
「信心深い婆様達がよく口にする『白綿虫が低く飛ぶと冷害が起こると』いう言い伝えが本当か気になった時期がありましてね。論文にも書きましたが、実際にも昔の文官の書記や風俗記に飢饉の前にその現象があったことが確認されてる証拠もありますし、これは学会受けがいいテーマだと思ったのですが現実はなかなか難しい」
ボリボリと長髪の白い髪を掻いている。先ほどまでの話の勢いがそがれている。
わかっているなら身なりを整えて貴族の付き合いもきちんとすればいいだけのことなのだが、彼にはそのハードルが高いのかその必要性を身に染みていないかのどちらかだろう。
「そういえばシャンの話でしたね。シャンの憑依に対しては兎菊草という花のオイルで書いた魔法陣が有用という話です。実際生きた個体が見つからないので実験したことはないので文献の記述だけですがね。アルニカ自体は内服で心臓病の治療に使ったり、外用では打撲や血行促進に使われているので手に入れるのは簡単でしょう」
「アルニカオイルというとスッキリとした香りの?」
「ええ、庶民の間では万能薬とも言われていますし、疫病が流行った大昔は国から各家に配布されたこともあって家に常備する人も多いですね。一説にはあの香りにシャンが嫌う成分が含まれているのかもしれないともあります」
何故、私がネルケの街で種に襲われたのかが分かった気がした。
タイミング的に茶会の寸前というのはおかしな気がしていたのだ。領地の屋敷でもいくらでもチャンスがあっただろう。
原因はハンス爺だ。
彼は年もさることながら長年の立ち仕事で足がむくみやすいとこぼして、いつもアルニカオイルでマッサージをしていると言っていた。
不思議なサッパリとした香りが気になって前に質問をしたことがある。
家令を引退したとは言え、過保護な彼は私について図書室へ行ったり、一緒に散歩したり、あげくは寝る前に子供部屋の見回りも欠かさずしていたはずだ。
あの匂いを忌避するなら領地の館では私に手は出せなかっただろう。ハンス爺に感謝しなければならない。
そう思うと確かめる術はないが、昔に各家に配布されたというのも疫病対策ではなく、おぞましい虫の脅威から身を守らせる為だったのかもしれない。
「対応策があるのは心強いですね」
「先ほども言ったように日の光が弱点なので、日中、憑りつかれた人間をアルニカの魔法陣に寝かせて体から出てきたところを陽射しで退治するのがセオリーとされていますね。それで他にはどんな神話生物を?」
「あ、後はこの間王宮で馬の頭をした鳥に会ったんです。シャンタクと呼ぶと伺いました」
「あー、ああ、シャンタクですか……」
詩人の話だと手に入れる手段がある生き物なだけに、学者はガッカリしたようだ。
「あれはまあ監視やメッセンジャーとして使役される生きた化石みたいなものですね。王宮で見たというのは問題かな」
学者はちょっと考えてから、バタバタとデスクに駆け寄り2、3箱をひっくり返して目当てのものを手に入れるとこちらに戻ってきた。
「これを」
テーブルの上に置かれたのは黒い皮で出来た組紐である。
「これは夜鬼と呼ばれる同じく神話生物の皮なのですが、シャンタクの天敵でしてね。身近に置いておけば近寄ってくることはないでしょう」
そういうと手に入る業者の名前と場所を紙に書きつけると詩人に渡している。
「王族の部屋や公務室には完備しているはずだけど、さすがに客間までは置いてないでしょうね。これはお嬢さんにあげましょう」
これを持っていたらあの人懐っこい鳥に避けられてしまうかと思うとちょっと残念であるが、ありがたくいただいておくことにする。
「お気遣いありがとうございます」
「お嬢さんの家にもいくつか置いた方が安全だろうし、詩人に業者から手配してもらうといい」
ナハディガルがお任せをと私に一礼する。
餅は餅屋というけれど、不思議な生き物を知る専門家がいてくれて助かった。
これまではまったくの丸腰であったのだ。少しでも対策がとれるに越したことはない。




