613話 決意です
楽しそう?
カトリンは、ゆっくりと水晶に侵食されているのを自覚して、正気を失ったとでもいうのだろうか、もしくは自暴自棄になっているのか。
それはどちらでもなかった。
「水晶になって置物として眺められるのも、店先に並ぶのもまっぴらなの。あたしはもう売り物になりたくない。これ以上、何も売らない」
体は恐怖に震えながらも、きっぱりと強く彼女はそう言った。
彼女は自身の美に他者から値段をつけられ、それを売って生きてきた。
鑑賞物であり、愛玩物でありそして消費されるモノとして生きていた。
この決意は、単に窮地を脱する方法だけではなく、過去との決別を兼ね備えていることに気付いているのだ。
この方法は、彼女の美貌を大きく損ねることだろう。
嫌な言い方であるが、娼館にとっての商品価値を落とす行為なのだ。
美しさを称賛される人生しか知らない彼女にとってこの先は易しい道ではないだろう。
彼女が今震えているのは、痛みへの恐怖か今後の扱いが変わることへの不安か、それとも知らない生き方への憧憬からなのかは私には分からない。
分かるのは彼女が決意した事だけ。
せめてもと、ハンカチを畳んで咥えさせる。
尋常でない痛みに耐える時に、柔らかいものを噛ませないと食いしばった歯がボロボロになると聞いた事がある。
これが慰めになるかは分からないけれど、ないよりはマシだろう。
広範囲の癒着ではないので死にはしないだろうけれど、皮が剥がれる痛みは想像を絶するはずだ。
「頑張ってカトリン」
そんな気はなかったのに、その言葉が合図であるかのようにグーちゃんが彼女を渾身の力を込めて持ち上げた。
ベリリッ
音が聞こえた。
皮を剥ぐというより平面に貼ったガムテープを剥がすようなそんな音。
同時にハンカチを咥えたまま、悲鳴のようなくぐもった呻き声があがる。
床には、人の表皮と水晶が混じったものが幾つか残されて血溜まりを作っていた。
グーちゃんに抱えられたカトリンは、ぐったりとしている。
痛みで気絶したようだ。
その方がいい。
自分がどうなったか知るのは、今でなくてもいいのだから。
安全な場所に着くまで意識を失っている方が楽だろう。
剥がされた彼女の顔の左側や両の手の平は真っ赤に染まっている。
直視するには無惨な有様だが、よく見なくても細かな水晶の破片がまだついていた。
それはキラキラと鱗粉のように光っている。
それを取り除くのは外に出てからだ。
「早く、ここから出ないと」
グーちゃんはカトリンを抱えて、一足先に出口に向かっていた。
早く治療を受けさせないと。
ジーモンの手に負えるかしら。
傷口を綺麗にして止血したら出入りの馬車で街の治療院へ向かおう。
私はアニーの手を引くと、グーちゃんの跡を追おうとしたが少女は動かなかった。
「アニー……?」
異変を感じて振り向いた。
「逃がぁざな゛いぃぃい」
ざらつく声と幼い声が二重になって、水晶の棲家に響いた。
声の主は、水晶になりかけの鉱夫と、わたしが手を引いている少女であった。
「あ゛なぁたも、あ゛なたぁも、あなだも」
パキパキと音を立てて男は水晶になった体を無理矢理に動かしながら、こちらへ手を伸ばしている。
動く度に硬いその体は破砕して細かな水晶の破片を落としていた。
手を伸ばすと言っても、それはグーちゃんに落とされてしまっていたので、正確には二の腕をこちらへむけているだけだが。
水晶に張り付いた僅かばかりの顔は、口を大きく開き、肉と水晶が混ざった口内を見せつけながら、その舌を震わせている。
「いぃぃぃっじょに、なありま゛しよぉう?」
男と同時に発声するアニーの顔からは表情がこそげ落ち、死人というより人形のような無機質な何かになってしまったようにみえた。
そうして2人は口を大きく開けた。
「あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"」
それは一定の大きさの音を出しながら、高く低く音程を変えてちょうどいい音を探るように叫んでいた。
まるでチューニングをしているかのようだ。
実際、それは調音し、調整して人にわかりやすい音を見つけると止まった。
「あぁあ゛、逃げテは、ダメよおぉぉ」
ガラスを踏みしだくような高い破音と共に、シュッと何かが空を切った。
入口に近かったグーちゃんは、カトリンを抱いたまま、高く飛ぶとそれを避けた。
先程まで彼がいた場所には、水晶出来た鞭のような触手が刺さっている。
茨のような触手は、男と同じく動く度にパリパリと細かい水晶の欠片を振り撒きながら、グーちゃんに向かって蛇のようにその先端を持ち上げた。
「ねえぇ、ヴつくしいもぉノに、あナたも、なりマしょう」
その言葉に聞き覚えがあった。
「……、オイゲンゾルガー夫人?」
私の言葉に、触手が止まる。
「よぉウごそ、よおこぉソ、ヨウこそお。うづくしい、スいしょぉぉうノすみかへ」
その声は喜びに満ちて、私達を歓迎していた。
「ようこそ」




