610話 浸食です
男の体から生えた水晶は、服を破いて天を目指すかのように上へと伸びていた。
残っている肌と水晶の境目は曖昧でお互い溶け合っているかのようである。
人体との接触面から透き通った水晶がその下にある血管を、筋肉を、内臓を、人の内部をまざまざと見せつけていた。
それが全部水晶に置き換わる時、朧水晶は完成するのだ。
そうしてそれは人とは思えぬような蠢動を繰り返し、生きていることを主張していた。
生きている。
こんな状態になってもまだ生きていた。
その塊は意志を持って、女を逃がすまいと彼女に巻きついているのだ。
「ロッ……、ロッテ婆?」
苦しげな声が聞こえ我に返る。
「カトリン! 大丈夫?」
彼女を抱き起こそうとするが、ビクともしない。
「ロッテ婆? そこにいるの? あのね、何だか体が動かなくて、あたしどうしちゃったんだろ?」
幸いにもカトリンには水晶が生えている様子はない。
衣服もそのままで、動けないだけのようだ。
「何かが頭の中で、あたしに言うの。ねえ、これは誰の声? 一緒になろうって言うの。よく分からないけど嫌だった。だってまだあたしは外を知らない。せっかくロッテ婆が色々教えてくれたのに、あたしは知らないことだらけなんだもの」
同じ場所、同じ時間ここにいたというのに、彼女と男の水晶への変異の速度の違いはなんだろう。
水晶に変化するのに男女差でもあるのかと思ったけれど、もしかして、水晶への魅入られ具合なのかもしれない。
男は誘惑に溺れてそれに身を委ね、この子は必死に抵抗したのだ。
その芽生えた希望をもって。
私との他愛のない短い時間の会話が、彼女にとってどれほどの意味を持っていたのかが知れる。
親に売られてから娼館が世界のすべてだった少女。
自由はなく窓からの景色だけが彼女が知りうる外だったのだ。
客と娼婦達の会話、色事の手練手管。
仕事に必要なそれだけが持ち物のすべてで、彼女は夢の見方も知らなかったのかもしれない。
中身が子供のまま、娼館で大人になったカトリン。
彼女は、それでも何かを見つけたいと希望を持ったのだ。
ひょっこりと現れた私なんかの話を聞いて、彼女は自分が羽ばたける事を初めて知った鳥のように。
それが今、彼女を人としてたらしめているのかもしれなかった。
心が、精神が水晶を受け入れるか否かで侵食を遅らせることが出来るのなら、カトリンをこのまま連れ出せばよさそうだ。
間に合って良かった。
グーちゃんが水晶に抵抗出来るとアニーが言ったのも、ぐーうの彼なら簡単に誘惑を突っぱねそうだからかもしれない。
「この人なんかどんどん硬い石みたいになってったの。怖いわ。何が起こってるの? ここはどこ? 脅されてこんなとこまで連れてこられて……。ねえ、あたしなんで動けないの?」
安心したのか矢継ぎ早に質問してくるが、私とて正解をもっている訳ではない。
「落ち着いて、今はここを出るのが先よ」
カトリンの肩に手をかけて体を起こそうとするが、やはりビクともしない。
強めに引くとカトリンは叫んだ。
「痛い! 痛い!」
カトリンは倒れたまま、こちらを振り向く事も出来ないようだ。
その悲鳴に手を離して、回り込んで彼女の顔を覗き込む。
床から生えている多角の水晶が、床に接している彼女の皮膚と同化している。
カトリンは、その綺麗な顔の左側を床に付けていた。
床に接している手の平、腕、そして顔の1部がまるで縫い付けられたかのように水晶に癒着している。
強い意志で水晶に抵抗していた彼女だが、それでもじわじわと侵食されていたのだ。
なんてこと。
間に合うだなんて、気楽に考えていた。
私の力ではどうしようもない。
一体どうすれば、何をすればいいの?
扉の外に立つグーちゃんをチラリとみる。
彼はアニーを抱き上げたまま、来た方向に顔を向けていたけれど私の視線に気付いてすぐに横まで移動してくれた。
「困ってるだしか?」
その声にカトリンがぴくりとする。
「何? 誰? 誰の声? ロッテ婆、誰かいるの?」
顔を動かせないせいで、聞きなれないグーちゃんの声に警戒しているようだ。
彼の細く高い不思議な声は、鉱山にいる誰の声とも似ていない。
焦りと怯えが伝わってくる。
彼女が落ち着くように、背中をゆっくりと撫でた。
「大丈夫よ。アニーと私のお友達が一緒に来てくれてるの」
「ロッテ婆の友達? ああ、びっくりした。驚いてごめんね。ちょっと変わってるけど可愛い声ね。はじめましてよね?」
こんな時に何を呑気にと思ったけれど、怯えた事でグーちゃんが傷ついたのではと彼女は考えたのかもしれない。
こんな時なのに人の事を思いやれるなんて彼女の美点だ。
きちんと謝れて偉いわ。
きっとカトリンの祖母が幼少の時に、しっかり躾けた結果だろう。
グーちゃんはというと、なんだかモジモジとしていた。




