608話 扉です
人力で掘られた坑道はそこほど広いものではなく、天井や壁はでこぼことしていた。
松明を引っ掛けて置く為の留め金が所々に打ち付けてあるけれど、肝心の松明は見当たらなかった。
昔に放棄された坑道なのだから、それも当然か。
振り返ると入口が暗闇にぽっかりと白く四角く浮かんで見える。
主道から脇道が幾つも掘られていて、1度でも曲がったら方向を見失って迷子になってしまいそうだ。
ある脇道に差し掛かった時、アニーがそちらを指差した。
グーちゃんはそれに従うように曲がる。
私は慌てて何か目印をと周りをキョロキョロと見回してみるけれど何も無い。
せめて曲がり角に小石を置くなりしようと手間取っていると、先に行ったグーちゃんから声を掛けられる。
「大丈夫でしよ。来るだし」
暗闇の中、声が響く。
いつも通りの声。
彼らにはどうやら、道がわかっているようだ。
はぐれるのだけは避けたいので、目印を付けることは諦めて足を早めた。
複雑に入り組んだ坑道内を、グーちゃんはアニーの案内で止まることなく進んでいく。
手燭の光でぼんやりと浮かび上がる2人の背を追う。
途中、グーちゃんは何度か足を止めて、振り返って後ろを確認する素振りをしているけれど、それが何なのかは分からない。
私を見ている風ではないが、気になる事でもあるのだろうか。
そんな事を繰り返しながら、どんどんと奥へと進んだ。
道案内をしているアニーには、何が見えているのだろう。
もしかしたら眠ったまま夫人に誘われているのかもしれない。
迷う事ないその確信を持った道案内は、信じるに値すると思わせるものであった。
グーちゃんがアニーを連れていくと言った訳だ。
彼女は道をわかっている。
指示に従って角を曲がる度に、少しずつ心が浮き足立っていくのを体感する。
じわじわと、立ち上ってくるこの先に期待する何かがあるようなうれしさ。
まるで恋しい人を待たせているかのように心が踊る。
この不思議な高揚が物語ってくれている。
これこそが朧水晶の棲家へ近付いているという事を。
私は、朧水晶自体にそこほどの興味は持っていないはずだ。
その私でさえこうなのだから、水晶やその夢にあてられた人間ならば、光に引き寄せられる虫のように心の示すままに、この闇を進んで行くだろう。
魔性に取り憑かれ、心を奪われる事を魅入られるというけれど、まさにこういう事なのかもしれない。
本人は、この先に悦ばしいものが待っていると信じきって、この暗闇も不安も心配も何もかも置き去りにして身を投じるのだ。
いつでも引き返せるというのに、その選択は塗り潰されてないことにされる。
私は消えてしまった鉱夫達は、恐怖に満ちた最期を迎えたのだと何となく思っていた。
彼らと同じ道を歩いてようやく理解する事が出来た。
恐怖におののきながらも、彼らは望んでこの道を進んだのだ。
その心に従って、自分の命を省みず迷路のような坑道を進んだのだ。
そうしてたどり着いた先にあったのは、なんというか、場にそぐわないものであった。
それは重厚な装飾のついた大きな扉だった。
坑道の入り組んだ道の奥に備え付けられた分厚く重い扉。
こんなところに扉があるなんて、まるで出鱈目な光景である。
中から冷気ではないが、なんともいえない寒気を伴った何かが染み出している。
それと同時に愛しい人にようやくたどり着いたような喜びも溢れてくる。
ここなのだ。
この中が水晶の棲家なのだろう。
誘われた人々は、悲観ではなく喜びに満ちてここへ飛び込んだに違いない。
外からの客を歓迎するかのように、その扉は鎮座していた。
それは外側から、横木でしっかりと閉じられる閂のついた扉だ。
水晶にする鉱夫が万一、逃げ出さない為のものだろう。
完全に出来上がるまで、出来上がって回収されるまでこの横木が閉じ込めるのだ。
いくら浮かれてここまで来たとしても、そのうち空腹や置き去りにされた違和感で、いつ正気に戻ってもおかしくはない。
その為に作られた扉なのだ。
そして、私にはこの扉に見覚えがあった。
扉に付けられた叩き金。
それは鉱山に相応しく、鉱山妖精の顔を模したものだ。
これはオイゲンゾルガー伯爵邸の正面玄関にあったものと同じ。
きっと伯爵は出入りの職人に扉を作らせて、ここまで運んだのだろう。
閂の扉の注文を受けた職人は、伯爵邸の扉なのだからと使用用途などは気にせずに同じ叩き金をつけたのだ。
この場所は秘匿しているのだから運搬と設置はグンターが鉱夫にやらせたのかもしれない。
今は扉は締まっている状態だが、その横木は外されていた。
この先の事は私に任せるらしく、グーちゃんはアニーを抱き上げたまま扉の脇に立っている。
そうね、ここに来る事を選んだのは私だもの。
私が開けなくては。
「案内してくれてありがとう」
「入るでしか?」
「カトリンがいるか見るだけよ」
私達は空々しい会話を交わした。
グーちゃんにも、この先はわからないようだ。
何が待っているかは、わからない。
何もないかもしれない。
開けたら終わりかもしれない。
それでも、覗かずにはいられないのだ。
好奇心は猫を殺すというやつかしら。
ちょっと違う?
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているという方がいい?
どちらにせよ、もう後には引けない。
私はそっと扉を開けた。




