602話 先の事です
不用意に細工師の小屋へ足を踏み入れるなんて無謀な事をしてしまったけれど、私はひとりではなかったのだ。
もし、私に危害が及ぶような事になっていたら、きっと助けに来てくれたのだろう。
「本当にありがとう」
「よかったんだし。他にもいるのが安心してるだし」
唐突にグーちゃんがそう言った。
「え?」
少し離れた木々しかない所を指差している。
「あそこから見てるんだし」
目を凝らしても何も見えない。
何の音もしない。
そこにあるのは、暗闇に飲み込まれた木立だけのはずだ。
何が見てたのかしら?
それとも誰が?
そういえば虫の音さえ聞こえない。
「どういうこと?」
「大事にされてるんだし」
そう言うとグーちゃんは、ふいっと顔を反らして鍛治小屋へと進んでいってしまった。
マイペース過ぎるグーちゃんのこういう所は、中々なれそうにない。
別に機嫌が悪いとかではないのよね。
ここにいる意味がないから移動しただけなのだろうけど。
私は指差された方向に後ろ髪を引かれながらも、小走りでグーちゃんを追いかけた。
あそこに何がいたんだろう。
グーちゃんは流暢にしゃべるようになったけれど、たまに会話が成り立たない事がある。
ずっとひとりで洞窟で生きていたせいだろう。
言葉を使い慣れていなかったり、間違えて覚えていたり。
しゃべれるからこそ、意味がわからなくなるなんて皮肉なことだ。
ゆっくりとたどたどしく喋っていた頃が、なんだか懐かしくもある。
あの時は私も彼の真意を汲み取ろうと何度も聞き返したり時間をかけていた。
難しい事は分からなくても、気持ちは伝わっていたし変な言葉がない分、それは本当の交流だったのかもしれない。
鍛治小屋に帰ってから、ジーモンにラムジーの事を聞いてみた。
正確な所は覚えていないそうだが、鉱山に来たのはここ数年の事だという。
彼が家でしていた人間の解体は知らなかったけれど、ゴミ穴に骨の無い死体が投げ込まれるようになったのは細工師が来てからなのは間違いないそうだ。
さすがに死体を見つけた時はグンターにその事を訴えたが、取り合ってもらえなかったそうだ。
何度も犯人を見つけるよう進言したせいで、グンターに煙たがれて嫌がらせがエスカレートしてしまったという。
その結果、舌を切られて沈黙するしかなくなったのだ。
グンターの性格がきつくなったのは、ラムジーが赴任してきたのと同じ頃だという。
グンターは、ラムジーという仲間を得て悪い方に転がってしまったようだ。
ラムジーが来るまで骸骨水晶は作られていなかったとしたら、グンターのなけなしの善性がそれを踏み止めていたのかもしれない。
それでも人間を水晶の材料にしていたのだろうし、まさになけなしだ。
それもまあ今では無くなってしまったようだけれども。
とにかく私を仲間だと勘違いしているうちに逃げてしまわないと。
今日無事であっても、明日からは分からない。
ジーモンには近日中に立つ事を伝えて、荷物もいつでも運び出せるようにまとめてしまおう。
食堂への外部からの客のお陰で、馬車の往来が増えているのも都合が良かった。
前ならば週に数回しか開くことのなかった厳重な門は頻繁に開けられるようになった。
お陰で逃亡しやすくなっている。
それに、今では荷馬車の馭者は顔見知りだ。
街へ用事があると言えば、特に気にせず乗せてくれそうな気がする。
万一に備えてグーちゃんにも何かあった時はアニーを連れて逃げるよう念を押す。
その場合はあの洞窟で落ち合う予定だ。
どちらにせよ住居が決まらないとグーちゃんを迎え入れる事は難しいので、洞窟は重要な合流点になる。
街で基盤を作るまでは寂しい思いをさせるかもしれないけれど、先を考えればそれは大事な事だもの。
万一、追っ手がかかってこの領地を出る事になるかもしれない。
そうなれば迎えに来るのが、予定よりうんと遅れる事もありうるけれど、グーちゃんは気にせず待ってくれるという。
長い時を生きるぐーうにとっては、私が考える期間は、そこほど長くも感じないらしい。
それにジーモンの存在が大きいようだ。
彼はここから離れないので、グーちゃんはひとりきりになる訳ではないのだ。
「時間が経って変わってもグーちゃんにはふたりが分かるだしよ。ぐーうは人の魂で生きる者でしから見分けるのは得意でし。外が変わっても中はずっと同じなんだし」
グーちゃんはなんだか哲学者のような面持ちでそう言った。
そうね、何年か経ったらアニーも立派な淑女になって様変わりしているかもしれない。
その成長を見守れるのは楽しみだ。
まあ、老女と子供が逃げたからといって追ってくる者がいるとも思えないから、すぐに再会出来そうだけれど。
所詮今の私は身分もない食堂の手伝いなのだし。
「あっ……」
ここにきてようやく自分の失態に気が付いた。
細工師小屋に足を踏み入れた事で、私は朧水晶の秘密を知ってしまった。
これはまずいのではないか?
細工師は私が仲間だと思っていたけれど、今日の事を聞いたらグンターはどう判断するだろう。
秘密を知られたと考える?
それとも彼も私を仲間だと勘違いしてくれるだろうか?
それはあまりにも能天気過ぎる。
どちらにせよ、何も知らないうちに逃げるべきだったのだ。
ここの生活があまりに気楽で、思い立てなかったけれど路銀も手に入ったし潮時だ。
次の荷馬車の日程を確認しないと。
自分で自分の首を絞める事になるなんて、本当に軽率だったと後悔した。




