601話 嫌神者
この世界では嫌神者は忌避される存在だ。
神の存在を強く確信しているからこそ、その心の内はともかく声に出して神を悪しざまに言う者はいない。
もしそのような事をすれば、たちまち周りから村八分の扱いをされるのは目に見えているからだ。
無法者ならいざ知らず、そのような行為をとるのは大変なリスクを伴っていた 。
神を厭う。
それはこの世界で禁忌に近いものなのだ。
地母神黒山羊を嫌っても、その因果から逃げ切れないからこそ、別の悪神を頼ることになる。
結果は、別の神の信者に納まるしかなく、神という存在を嫌ってはいられないのである。
この男はそんな世界では珍しく、神を嫌悪していた。
なにより神よりもアニカ・シュヴァルツが上で、神は畏れる対象ではないのだ。
その無謀さを目の当たりにして、私は竦んだ。
「あんた賢者様の世話になってるのに、まだ黒山羊が怖いのか」
うろたえた私に、男は見下すような目線を投げた。
アニカ・シュヴァルツという存在に庇護されているのに、何をコソコソとしているのかわからないという態度である。
それは絶対的な信頼で、信じ切れていない私を憐れんでいたのかもしれない。
会話に飢えた彼は、賢者への称賛、神様への批判や悪態で私と盛り上がりたかったのだ。
だけれど、いくらなんでも私には、そんな度胸はなかった。
「そんな風に言うものではありませんわ」
仲間に思われているとはいえ、私には到底出来る真似ではない。
話を神様から逸らすしかない。
そんな私の焦りをよそに、男は得意気に壁を叩いてみせた。
コンコンッ
乾いた木の音がした。
「コレがあるからな。俺らはやりたい放題だ」
彼が指していたのは、壁に彫られた文様だ。
やはり何か意味があったようだ。
「それ、部屋のあちこちに彫ってありますが、なんですの?」
「ヒヒッ。これはな、神の目を塞ぐ印だ。『神は覗き見る』んだ。都合の悪い事をする時に刻むもので、『旧き刻印』と言う大昔から呪術師に伝わるまじないなんだ。これを四方に刻み込めば、その中を黒山羊は覗けなくなるんだ」
四方にと言いながら、彼は元の住み家もこの建物の壁も床も病的なまでに印を彫っていた。
「鉱山もこれで囲ってあるから、俺が見つかる事はないんだ」
だからやりたい放題ということかしら。
でも、鉱山自体が囲われているなら、家の中をこの文様だらけにする必要はない。
刻印だらけにしているのは、その実怖くて仕方がないのでは?
そこいら中に彫り込まれたそれは「神の目から逃れる」ことに、執着している証拠だ。
口でなんと言おうと、男が心のどこかで神を恐れているという事を表しているとしか思えない。
そんな誰でも気付きそうな矛盾を気にする風でもなく、ただただこの文様の素晴らしさを口にしていた。
もしかしたら、この男は自分が神を恐れている事を自覚したくなくて、その事実自体を忘却しているのかもしれない。
彼の常軌を逸した様子が、そうであってもおかしくないと思わせた。
結局私は特に何かされる事もなく、細工師の小屋を無事に出る事が出来た。
男はその後も賢者の事を語りに語り、満足したところで興味を失ったかのように私を外に出したのだ。
それは身構えていた私にとって、呆気ない解散だった。
どれほど私が安堵したことか。
殺されないまでも拘束されるだろうと覚悟していたので、この扱いは思ってもいなかった。
幸運だったのだ。
相手はまともそうに見えて、その実、正気であったかも怪しかった。
なにが地雷かわからない綱渡りのような会話にへとへとだ。
そのまま持っていた籠の中身も、触ってみるとすっかり冷めてしまっている。
手元の灯り用の蝋燭も残り少なく、長い時間ここにいた事を示していた。
アニーは先に食事を終えて眠っている頃だろう。
大きく息を吐いたところで、声を掛けられた。
「シャウ」
灯りをそちらへ向けると、目深にフードを被ったグーちゃんがいた。
「探しにきてくれたの?」
ありがたい。
無事に出られたとはいえ、男が気を変えて捕まえにくる可能性だってあるのだ。
ひとりでないという事が、とても心強かった。
「シャウが来ないから来ただし。グーちゃんもうご飯終わったでし」
「そうね、本当に遅くなったわ。迎えに来てくれてありがとう」
グーちゃんは、闇夜に浮かぶ赤い目で、ジッと細工師の小屋を見ていた。
「悪いとこにいたんだしな」
いつもとは少し低い声だった。
「何もなくて良かっただし。グーちゃんここにいたでしよ。入るか迷っただし。ここはよくないでし」
「そうね、よくない所だったわ」
グーちゃんは鼻が効くし、ここで人が解体されている事に感づいているのかもしれない。
それでなくとも、鉱山にこっそり出入りしていたのだからゴミ穴に死体を運ぶのを見ている可能性はある。
それとも野生の勘で、ここが嫌な場所だとわかっているのかしら。




