600話 心酔です
ともかく夫人は5番坑道にいるのだ。
雨の日にグンターが朧水晶を持ち出すのは、夫人が天気が悪いと力が出せず、夢に出て来れない事と関係があるのだろう。
それこそ持ち出す度に水晶に変容しては商売にならない。
彼女へ枯れた花を届ける気はあるけれど、私まで水晶になるのはごめんだ。
「雨の日は安全ということ?」
「ああ、そう言ってたな。晴れててなんとかいう星が出てないと起きてられないとか」
星の有無とは思っていなかった。
水に弱いと言う訳ではなかったのね。
「それは伯爵が?」
「馬鹿を言え。あの玉無しがそんな事知ってるわけないだろ。賢者様だよ。あのお姫様だ。あの方が水晶を世に出したんだ。素晴らしいだろ? 俺の真価を認めて、手足になる事を許してくれたんだ」
それは唐突だった。
賢者の話になった途端、ウットリと酔っているかのように目付きまでもが変わった。
彼も伯爵夫人と同じく、アニカ・シュヴァルツに心酔しているのだ。
「あの緑の目で見つめられると、何でも出来るようになるんだ。何でも、だ! そして俺は成し遂げたんだ。神話の生き物をこの手で思うようにしたんだ。わかるだろ? それがどれだけの偉業か。俺は姫の手をとり、彼女も俺の手をとったんだ」
彼は宙を仰ぐように両手を広げて、その目は虚ろで、ここにいないアニカ・シュヴァルツを見ているようであった。
ええ、私も彼女の瞳を覚えているわ。
嫉妬が渦巻いた深い沼のようなあの欲深い眼差し。
最も彼女を信奉する人達には、素晴らしく魅力的に映っているようだけど。
「あなたの名前、ラムジーだったかしら」
ナハディガルが容疑者である呪術師の名前を教えてくれていた。
カマをかけるつもりで言ってみた。
「ん? ペィオアルトルから聞いたのか? 今は隠れてるから名前は出さないようにしてるがな」
やはり、そうだった。
鉱山にいるなんて、誰も思わなかっただろう。
「高名な術師だと伺っていますわ」
この際だ、歯が浮くようなおべっかを使ってでも聞き出さないと。
満足気に男の口角が上がった。
「ヒヒッ、あんた分かってるじゃないか。そう、俺は有能で才能ある呪術師なんだ。賢者様のお陰で禁呪をものにしたんだ。俺は天才で唯一無二で……」
自画自賛ご止まらない。
「『高慢の種』が、あなたの作品なのね?」
男の目が輝いた。
「ああ、そうだ。そう、あれこそが現代の呪術師の中で俺だけが成功した禁呪だ! 誰にも作れない、俺だけが成功したんだ。本来なら俺はこんな所にいるはずじゃない。称えられる偉業を成し遂げたのに、追われるなんて世の中どうかしてる! あの忌まわしい聖女がいなけりゃ、賢者様が王太子妃に……、ゆくゆくはこの国の女王様のはずだったんだ!」
そう叫びに近い吐露の後、頭を抱えて苦悩してみせた。
なるほど、アニカが国のトップになっていたら、彼の地位も安泰だったということなのね。
賢者の協力者として国の重鎮になるところが、鉱山でくすぶる事になっているのだから、その嘆きも分からないではない。
恨まれるのも分からないでもない。
でもね、だからといってハイデマリーにした事は許されない。
人を貶めて、それも子供を踏み台にするなんて。
今、彼がこうしているのは、そのツケを払っているに過ぎないのだ。
賢者派は、彼女の玉の輿を信じている。
だけどそれは捕らぬ狸の皮算用というものだ。
王子はアニカ・シュヴァルツを嫌っているし、私がいなかったとしても、婚約者に迎えそうにない。
それにハイデマリーも他の令嬢もいる。
国内の令嬢だと軍部の突き上げがあるかもしれないけれど、何なら他国の王女や公女を迎える事だって出来るのだ。
そこまで考えてから、今の私の状況からその可能性は低くない事に気付いた。
私以外が王子の婚約者になる。
少し胸が痛んだ気がした。
これは幼稚な独占欲かしら?
それとも家族同然に思っているから、家族でなくなる事へのさみしさ?
王子はたまに意地の悪い事もあるけれど、いつだって私の事を考えて甘やかしてくれていたから、名残が惜しくてもおかしくはないわよね。
気分が塞ぎそうになる。
今考えることじゃないので、その思いを無理やり心の中から追い出した。
私がそんな事をしている間も、ラムジーは憑かれたように賢者の美点を上げて演説をしていた。
そもそも賢者の関係者は、彼女に甘すぎなのだ。
王太子の婚約者に選ばれたいならば、まず彼女に礼儀作法を教え込むべきだった。
貴族の矜恃を説明し、どうあるべきかを自覚させなければいけなかったのだ。
あれでは到底王族の公務には出せない。
この人達は、あのわがままぶりを見ていないのだろうか。
思考が曇っているとしか思えない。
「『高慢の種』、あれに俺は、俺の全てをかけたんだ。成功したんだ! 本物だ! それがどうして失敗するんだ? 邪魔しやがって、何が聖女だ。糞忌々しい黒山羊の下僕め!」
神を冒涜するその発言に、私は思わずよろめいて壁に手をついた。
そんな風に言う人間を目の当たりにしたのが初めてで驚いたからである。




