586話 悔恨です
少女が布越しのくぐもった悲鳴を発したその瞬間、小屋の中のシーツの塊がむくりと立ち上がる。
そうして、それは素早く男へと向かった。
地面の上で痛みに涙の滲む子供を見て、男は満足気に笑った。
無様だと指差して、声を立てて笑った。
だけれど、それは直ぐに止まる。
どすんっと、男に何かが体当たりしたのだ。
同時に、彼の首元を何かがする。
「あ゛っ」
その勢いで、地面に転がった。
首が痛い。
胸が痛い。
何かが、血が、首から噴き出している。
止めようと手で抑えるが、すぐに止まるものでもない。
死んでしまう。
死んでしまう。
男はのたうち回った。
何が起こっているか分からないけれど、自分に良くない事が起きている事だけは分かった。
男は倒れ込んだまま、少女を抱きしめる何者かを見た。
ボロを纏い、目深にローブを羽織ったその手には鉤爪がついていて、濡れていた。
死に向かう男は、それが自分の血であることを自覚した。
『わかるんだよ、あれは鉤爪だ! 曲がった爪が俺をかすったんだ。ほら! 見てくれ』
一晩を穴の中で過ごしたあの男の叫び声を思い出す。
震えて怯えていた。
あれは嘘ではなかったのだ。
ここにいる。
本当にいたのだ。
ソレはここに、自分の目の前にいる。
何故、あの時笑って済ませたのだとあの時、あの場にいた鉱夫達を頭に思い浮かべて責め立てた。
あいつは本当の事を話していたのに。
なんで囃し立てて茶化してしまったのか。
化け物がいるのだから、皆で追い立てて殺しておくべきだったのだ。
そうしておけば、こんな目にあわなかったのに。
自分の首を、あの鉤爪で抉られずにすんだはずなのに。
後悔
後悔
後悔
盗みに入った事を、悪事を企んだ事を、鉱山を選んだ事を、暴力でここまで来た事を。
男はそれまでの言動を、人生をやっと後悔した。
どこかで違う行動をとっていたら、この異形と出会う場面は来なかったかもしれなかったのに。
痛み、恐怖、悔恨、憤りがごちゃ混ぜになっていた。
そして、首の傷よりも彼を怯えさせてのは、打撲を受けた訳でもないのに、ひどく痛む自分の胸であった。
まるで血が沸いたかのように熱くなり、心臓から手の先に向かって何かが流れていく。
胸が痛い。
心の臓が痛い。
体の中心が痛い。
何かが抜け落ちていく。
首の傷のせいではなく、何か表現出来ない力によって、自分の命が、正気が、雑巾のように絞られている気になった。
そうして、唐突に手の中の首飾りの石が、それを吸い取っているのだと気がついた。
その流れの先にあるのは黒い石。
無力な子供から取り上げた首飾り。
「お」
勝手に口から声が漏れた。
呪いだ。
これは呪わしい石なのだ。
この石こそが呪わしいのだ。
「お、お」
命が枯れるのを惜しむように声が漏れた。
指輪にも同じ石がついていた。
仲間が突然死んだのも、今自分が死にゆくのも、すべてこの石のせいなのだと理解した。
首飾りを手放そうとしても、痛みで握りこんだ手を開く事は叶わなかった。
或いは、その呪いが手放すのを許さなかったのかもしれない。
こんなものを持っていた子供のせいだ
男は憤り、その原因へと目を向ける。
彼女はソレに保護されていた。
グルだったのだ。
あの子供は化け物と組んでいたのだ。
歯ぎしりが止まらない。
嵌められた怒りによるものか、得体の知れないモノに手を出してしまった恐怖によるものかわからなかった。
男を無視してボロ布の何者かは、少女の拘束を丁寧にその爪で解いている。
か細く高い声が聞こえた。
「大丈夫だしか? よく頑張ったでし」
そう言いながら、子供の首の傷をあらためている。
「痛そうな声が聞こえただし」
命に別状はない事を確認して長いため息をついた。
「つい手を出したでしよ。汚しちゃったでし。このままだと、シャウに怒られるだしね」
ソレは地面に広がる鮮血を見ながら、粗相をしたように肩を落とした。
「早く掃除しないとでし。あいつほっとけばよかっただし。アニーが痛いのほっとけなかったんだし」
「ぐーちゃ、あいあと」
微かな子供の声が、感謝を告げた。
男は憤慨していた。
自分がここで死に直面しているというのに、誰もこちらを注目していないのだ。
おい、こっちだ。
俺を無視するな。
死にかけてる人間を無視するな。
どれだけ怒ってみても、こちらを見ない。
フーッフッーと荒い呼吸だけでは、怒りは伝わらなかったようだ。
途端に気が弱くなった。
助けろ。
助けろよ。
助けてくれ。
助けてください。
命が縮んでいくのに耐え切れず嘆願する。
「お……、お、……お」
言葉は紡がれることなく、必死にしても口からでるのは漏れた空気のような声だけだった。




