582話 怯える男です
男は、すべてを気のせいだと自分に言い聞かせて何も考えないように頭を抱えて眠ろうとした。
コツン コツン
眠りを邪魔するように、何かが降ってくる。
暗くて見えないが、触ってみるとそれが小石であることがわかった。
「誰もいないのに、石が降ってきたんだ! 誰もいないのにだぞ!!」
食ってかかるようなその様子に、周りはかえって笑い声を上げる。
「そんなもんあれだろ。人足頭かその手下の誰かが、お前を怖がらそうとしてやったに違いねえ」
「でなきゃ、猿でもいてからかわれたんだろ」
人を驚かせる祭りの出し物と同じだと言い聞かせるが、それを黙らせるかのように彼は叫んだ。
「穴を見上げるとよぉ、赤い火がふたつチラチラするんだ。あれは目なんだ。赤い目が俺を見てるんだよ! それで穴の淵から手が伸びてくるんだ」
「目が光るっていうのか? 手だって? 穴ん中じゃ何も見えないだろ」
「だよな。担ごうったって無駄無駄」
どれだけ訴えても信じてもらえないのに、男は絶望の表情を浮かべた。
「わかるんだよ、あれは鉤爪だ! 曲がった爪が俺をかすったんだ。ほら! 見てくれ」
確かに彼の頬や手には鋭いなにかがかすめたような傷があったけれど、それは錯乱した男が暴れて石の角や木の根でついたものにしか思えなかった。
「何度も何度も、俺を捕まえようとすんだよ。ありゃあ鉱山妖精だ。鉱山妖精が俺を食おうと手を伸ばすんだ!」
そうして男は、震えたまま床の上で身を守るように丸まってしまった。
女を殴って悦に入る馬鹿な男だったけれど、いくらなんでも恥も外聞もなく、こんな子供みたいな真似をしたことはなかった。
彼の変わりように不気味さを覚えると共に、その有様が信憑性を漂わせる。
まったくの嘘ではないのかもと、囃し立てていた連中の心中には不安が芽生えていた。
大体、鉱山妖精なんてものは御伽噺のひとつでしかなかったのだ。
鉱夫達はその存在を散々怖がってはいたものの、実際に見たものはいなかった。
その伝承の舞台である鉱山にいるのだから得体の知れなさはあったが、昔ながらの言い伝えを守ってパイの端を坑道に捨てるのも、一種のゲン担ぎのようなものだ。
実在するなら、もっと話があってもおかしくはないのではないかと主張する輩もいたが、十分この鉱山の呪いの話は有名なのであったのに彼らは思い至る。
人を威嚇して暴力を軸に生きてきた彼らは、その不安を消す為の知識も篤い信仰も持ち合わせてはいなかった。
こうしてケチがついた事で、一味の当初の目的はおざなりになりダラダラと鉱夫としての日々を過ごすことになった。
食事はいいし、仕事といったら指定された坑道に入って鶴嘴を振る。
後は崩した石クズを外に運び出すくらいで、肉体労働ではあるけれど単調で退屈な仕事である。
よその鉱山のように、期限内にどこまで掘り進めろというノルマもないし、休憩時間もたっぷりあるのだ。
まるで坑道にいることが仕事のようなものである。
それでいて賃金もいいのだ。
不思議な事に言われた場所を掘っても掘っても、一向に新水晶は出ることはなかった。
前からここにいる鉱夫達に聞いても、こういうものだという。
なんでもグンターが鉱山から新水晶を運び出しているという話なのだが、それも噂でしかなくそれを手伝った者もいないようだ。
そもそも水晶が出なければ、運びようがない。
実物がないのだから、それは結局は与太話と変わらなかった。
鉱脈があるから働きにきているのに、それらしきものは見当たらない。
どうなっているのかは分からないけれど、見つかりにくいという事は貴重であるということだ。
水晶が出てこないのはそれだけ希少なものなのだと、やっきになって掘ってみても出てこない。
そもそも実物の水晶を見た事もなければ、宝石自体触ったことも無い鉱夫達は、こういうものかと納得して無為に過ごす毎日に慣れていった。
どちらにせよ賃金が出るのだから、そこで彼らの思考は止まってしまっていた。
満足する食事があり、現実を忘れさせる酒と性欲を満たす女を宛てがわれその上、金までもらえるのだから不満があるはずもない。
それはまるで、見方を変えれば家畜の飼育の様でもあったのだが、昼間の適度な労働の疲れがその思考を塞ぐのを手伝っていた。
そうしてだらだらと過ごしていたところに、ロッテという元貴族の老女が伯爵邸へ行く話が出たのだ。
それを聞いて悪漢のひとりの頭をまずよぎったのは、彼女の住まいに空き巣に入る事だった。
老女を庇う人足頭もいたし、鉱夫達は彼女をからかう事はあっても実際に手を出そうとする者はいない。
だけれど留守にするのならば、その持ち物を拝借するいい機会に思えた。
鉱山の仕事も飽きが来ていた彼は、よくつるんでいた仲間のひとりに声をかける。
大人数だと分け前も減るし、そもそも空き巣にそんなに人数は必要ない。
ひとりでも十分事足りるが、同じ事を考える輩がいないとも言えない。
牽制する見張りくらいは欲しいというものだ。
「うまい話があるんだ」
その言葉が、彼らの行く末を決めた始まりだった。




