580話 傷です
グーちゃんは軽い怪我のように言ったけれど、それは痛々しい擦過傷であった。
傷は首の左右と後ろにわたって1本の線の様になっている。
絆創膏のような簡易的なものがないので、傷の保護の為には包帯は有効だろう。
傷には獣脂の匂いのする軟膏のようなものが塗られており、ジーモンが作ったものだろうか。
彼は医者の真似事もしているし、きっと処置は適切なのだ。
首に包帯を巻いている違和感のせいか、その痛みのせいかは分からないけれど、アニーの声がいつもよりちいさかった原因はこれだったのだ。
「どうして首を……」
そこまで言って私は気付いた。
アニーの首にあったあの黒い石のネックレスがないのだ。
あれ程外さずに、人に触らせなかったというのに。
見れば同じ石で誂えたと思われる指輪も、その小さな指には嵌められてはいなかった。
「ネックレスを盗られたの? なんて酷い事……」
そう、傷跡は斜めになっていて、ちょうど大人がアニーのネックレスを正面からひったくろうとしたらつくものではないだろうか。
押し入った鉱夫達は、目的を果たしていたのだ。
小屋にあるか分からない金品よりも、この少女の装飾品が目当てだったのだ。
「ひどくないでし。悪いものだったし、良かっただし」
私が騒ぐのが大袈裟だというかのように、平然と言ってのける。
「鉱夫達がやったのね?」
「そうでしよ。良かったでしねえ」
グーちゃんは、とても満足気に答えている。
「良かったって……。あなた、何を言っているの? アニーは怪我をしているのよ? それにさっきは何もなかったように言ってたじゃない! これは暴力と窃盗よ」
激高する私にきっぱりとグーちゃんは言ってのける。
「悪いことは何もなかったんでし」
シレッとそういうグーちゃんを相手にしていると、怒っている自分が馬鹿らしくなってきた。
毒気が抜かれたのかよくよく考えてみれば、荒くれ者を相手に、首の擦り傷だけで済んでいるのは幸運な事だ。
そもそもあの装身具の石は壊れていた。
黒玉は服喪用装身具として広まっている平民にも手が届く価格帯の宝石である。
子供用の装身具なので石自体も小さかったし、そもそもヒビが入って欠けていたのだ。
あれを高く買取る質屋はないのではないだろうか。
つまりは資産価値がないのだ。
せいぜい鎖に値がつくくらいな気がする。
それを2等分すると考えたら大した収入になるとは思えない。
もしかするとその出処を疑った質屋の主人に怪しまれて通報される危険だってあるのだ。
高待遇のこの鉱山の仕事を棒に振ることを思えば、骨折り損のくたびれもうけではないだろうか。
アニーは悲しんでいないようだし、彼女が無事であるならば確かに悪いことはなかったと言えるのかもしれなかった。
「無くなって良かったんでし。だから、何も無かったんでし」
そうしてグーちゃんとアニーは顔を見合わせてニコニコと笑った。
「アニーは自由だし」
その声が、すとんっと私の胸に落ちた。
全くもって訳が分からないけど、これで良かったのだ。
ジーモンもグーちゃんに頷くばかりだ。
ここでひとりで怒っていても、何も変わらないのだから。
装身具を盗られて怪我もしたけれど、無事で済んだのはなによりだと終わらすのがいいのかもしれない。
大人が子供の持ち物を力任せに取り上げるなんて褒められた事ではないけれど、こちらとしても事を荒立てるつもりはないのだから。
そう納得すると何故だか私自身も、アニーの持ち物からアニカ・シュヴァルツとお揃いの装身具が無くなったのは、良い事のように思えてきた。
それに今まで2人は一瞬、見間違うほど似ていると思っていたけれど、こうやって見るとまるで別人だ。
顔立ちも雰囲気も全く違うし、単に髪と瞳の色が同じなだけなのに、何故似ていると思っていたのだろうと不思議になるくらいだ。
いくら同じアニカという名前だからと、どうしてそう思い込んでいたのだろう。
後でジーモンが小屋の戸を修理してくれると言う事で、器用な彼ならすぐに直せることだろう。
世話になった感謝を伝えると、これからも鍛治小屋で寝起きするようにジーモンから勧められた。
またちょっかいをかけてくるかもしれない鉱夫達と、グンターと細工師を警戒しての申し出のようだ。
伯爵に一筆書いてもらったとはいえ、大人の男がいる安心感は比べようがない。
グーちゃんとの関係もいいのだから、断る理由は見つからなかった。
それに元々は家族で住んでいたというだけあって、鍛治小屋は部屋数も台所も充実している。
鍛治の音だって慣れれば気にならないだろうし、猟もしているのだから一日中騒々しいという訳でもない。
こんなお婆さんなのだから異性と住んでも醜聞になりようもないし、何より必要以上にジーモンに懐いているアニーを見ていると、一緒に暮らした方が彼女の精神の安定にもいい気がしてくる。
鉱夫からの嫌がらせで男性嫌いになってしまわないか心配をしていたが、ジーモンへのなつき具合を見ると杞憂だったようだ。
押し入られて怖かったところに彼が手を差し伸べてくれた事で、いっそうの信頼を得たのか、もしくは父親に対するような情があるのかもしれない。
一方ジーモンも家族を亡くして久しいそうだし、そんなはぐれ者同士寄り添って生活するのも悪くない。
鉱山を脱出するまでの期間とはいえ、安心して暮らせるのはありがたい。
倉庫の様な小屋から荷物を運ぶ。
隙間風も入って快適とは言えなかったけれど、悪くない生活だった。
そんな回想をしながらも冬の寒さが来る前に、しっかりとした家に移ることが出来て不安のひとつが減った事に安堵していた。




