576話 発光です
私に気付く様子はないけれど、伯爵は一向に立ち去る気配がなかった。
灯りを落とされた部屋の中、暫くそこで身を潜めるしか私に出来ることはない。
闇の中で微かに発光する朧水晶は生きているかのような存在感を放っていて、水晶の光の揺らめきは、それの呼吸のようにも思えたほどだ。
何か未知の生き物と同席しているような、分からないものに対する忌避感のようなものがわいてくる。
書斎に不法侵入している気まずさもあるけれど、それとは違った何とも言えない落ち着かなさ。
美しいけれど、この水晶を私は警戒していた。
鉱物なのに、生きている感じがする不思議な物質。
自身で発光して、身を震わせて歌うモノ。
魔法がある世界だもの、それくらいあってもおかしくない事かもしれないけれど不自然極まりない物だ。
これが貴族達に持て囃される理由がわかったような気がした。
単純に美に惹き込まれることもあるだろうが、こんな美しく神秘的な物を無視出来るように人は出来ていないのだ。
さながら誘蛾灯のように、これはまさしく人を誘っているのだろう。
伯爵は朧水晶の輝きを思うさま味わうかのように、その前に立って見つめ続けていた。
その目には畏れや恐怖、そして思慕が混ざり押しあって浮かんでいる。
これに違和感を感じている私でさえ、気を抜けばふらふらと手を伸ばして近付いてしまいそうだ。
見つめて
見惚れて
魅入られる
暗闇の中、水晶の光に照らされた伯爵の顔がそう物語っていた。
もしかしたら本人には自覚がないのかもしれない。
だけれどその目は石を捉えて離さず、石は彼を捕らえて離さない。
妻を変容させたこの鉱石を、厭いながらも愛しているのだ。
これはこの領の商売道具なのだから、人々の目に付く玄関ホールや客を迎える居間に本来は飾るべきだろう。
調度品を置く場所は、この館にはいくらでも空いていた。
それをしないで自分の書斎にひっそりと閉じ込めているのは、まるで自分以外の誰の目にも入れたくないと言っているようなものであった。
存分に時間を掛けてそれを眺めると、伯爵は去って行った。
伯爵が部屋から退出して気配が去るのを十分待って、ようやくベッドに戻ることが出来た。
ポージーを握っていた手は、うっすらと汗をかいている。
花が崩れなくてなによりだ。
ハンカチに包んで荷物の一番上に置いたところで、やっと安心する事が出来た。
自分がこういう事には向いてないのを実感する。
用事も終わってやっと眠りにつくことが出来た。
また夫人に睡眠を邪魔をされるかと思ったけれど、私が花を手に入れたのを知ってか知らずか彼女が夢に訪れることはなかった。
お陰でいつもなら早朝に起きるところを、食堂の仕事もないのでのんびりと眠ることが出来た。
館の面々は、私が鉱山へ帰るのを惜しがってまたの来訪を望んでくれた。
私も思う存分料理の腕を振る舞えたことだし、気のいい人達なのでまたここに来るのは嫌ではない。
だけれど黙って花束を持ち出したことと、深夜の石との逢瀬のような伯爵を見てしまった手前、少々の気まずさを感じてしまっていた。
伯爵は何度も晩餐の成功を労ってくれている。
ハインミュラー商会長を思うと、そう遠くないうちにまたここに呼ばれる可能性もあるだろう。
挨拶を交わしていると、馬の蹄が地面を蹴る音が近付いてきた。
迎えが来たのだ。
私は来た時と同じようにスヴェンの馬に乗せられて、昼前に帰路へとついた。
帰り道は下りだということも手伝ってか、行きよりも速度が出ている気がする。
スヴェンと会話をしようとしても、舌を噛まないようにするのに必死でそれどころではなかった。
乗馬を楽しむどころか、私は運ばれる荷物みたいなものであった。
あっというまに入口に着く。
「少し急いでいたので、余裕が無い走りになってしまってすみません。昨夜の晩餐はいかがでしたか? 来賓というのは誰だったんでしょう?」
門が見えて安堵したのか、スヴェンが申し訳なさそうに口を開いた。
会話を避ける為に馬を飛ばした訳ではないのはいいけれど、誰と伯爵が会ったとかは話していいものだろうか?
別に口止めされたわけでもないし、鉱山に勤める人間には伯爵の客は気になるのかもしれない。
会話ならもっと別なことにしてくれたらいいのにと思ったけれど、共通の話題などあまりない事に気が付いた。
「お客様はハインミュラーの商会長様でしたわ。晩餐も満足いただけたようで、肩の荷が下りた気分です」
「なるほど、商談も込みのもてなしといったところでしたか。あそこの商会長は曲者だからロッテさんも大変でしたでしょう」
あら?鉱山の下働きが商会長を知っているのは、よくある事なのかしら。
それとも西部では、商会長自身が有名人なのかしらね。
「まさに王者の風格といった方でしたわ」
まあ、褒めておけば角も立たないしいいだろう。
「何か言われたりしましたか?」
「冗談かもしれませんが、私の料理でお店を出さないかと打診を受けましたわ。まあ、お断りしましたけどね」
「それは良かった。ロッテさんの料理が食べられなくなったら鉱夫達が暴れますからね」
珍しくスヴェンが軽口をきいた。
「ふふ、それは困ってしまいますね。それより急いでいたのではなくて?」
「あ、ええ……。これから山道沿いを麓まで見て回らないと行けなくて……」
スヴェンはそう言いながら門に馬を寄せると、掛けてある板を木槌で叩いた。
それを合図に、重い門が上げられた。




