59話 お忍びです
「学術地区はどんな感じなのですか?」
「そうですね。学生や研究員が通う場所なのでそれ用に発展したといえばいいでしょうか。本屋が多いのは特徴的ですね」
行き掛け馬車の中、詩人に学術地区の説明をしてもらう。
本屋が充実しているのは嬉しい。
買う当てがなくても、あの背表紙が並んでいるのを見るだけで楽しいものなのだ。今から入学が楽しみである。
貴族の子弟が通う学校がある関係で治安としては格段に良い地域であるという。
巡回する衛兵の数も充実しているとのことなので、心強い。
飲食店に、雑貨店などの店員のマナー教育も行き届いているらしく、貴族の子供も安心して使える上に店舗での買い物の練習にもなり好評との事。
本屋もそうだが文具や学術に使用する道具の店、活字組版に塗料をつけて印刷する活版印刷会社やそれに伴う職人に新聞社や雑誌社まで集まっているそうだ。
「君はあまり街で買い物をした事がないだろう? 途中で買い物をしていくかい?」
王子からまさかの提案がなされた。
いつも買い物といったら侯爵家が懇意にしているロンメル商会が屋敷に持ち込む現品かカタログをサロンで眺めて購入する経験くらいだ。
あまりどころか一度もないのである。
嬉しさのあまり笑顔になっていたのか返事は言わなくても伝わったようだ。
「君がそんなに喜ぶならたまにこうやって出かけるのもいいね」
王子もニッコリと笑う。
「嗚呼、女神にも勝るとも劣らない桜の花が咲き誇るかの満開の笑みよ。私の心を遥か彼方まで連れ行ってどうするおつもりなのか」
どうするつもりか私が聞きたいくらいである。
詩人が隙あらばポエムを差し込んでくるのにもなんだか慣れてきた気がする。
貴族街を抜けて学術地区に入ると、煌びやかというより落ち着いた感じの店が立ち並んでいた。
貴族といえど裕福でない者もいる。そういった者は貴族街や学術地区で下宿したりするのだ。
当然、自家の馬車を持たず乗り合い馬車を利用することになるので何人か学生達が乗り場に並んでいたり、食べ盛りの若者向けに屋台がいくつも連なっていたりと、この地区独特な街並みを作っている。
「まだ時間もあるしどこか行きたいところはあるかい?」
どこもかしこも見てみたいけれど時間は無限ではないのだ。少し考えてからリクエストをした。
「そうですね。文具店を見てみたいです」
ナハディガルに案内されて文具店に入ると木製の棚に見本の品が並べられていた。
山ほど商品を並べたりしていないので、文具店というよりはどちらかというと宝石店の様な趣だ。
筆記具の所を覗いてみると優雅な形のペン先や木や金属で出来ているペン軸がインクと共に並んでいる。
そういえばいつも勉強の時はつけペンとインクで文字をしたためているし、幼少時の落書きなどは蝋に顔料を溶かしたクレヨンだった覚えがある。
「持ち運べてインクが要らないペンみたいなものはありますか?」
店員に声を掛けて質問をするとお安い御用でというように商品を取りに走り、カウンターに出してくれた。
「こちらになりますよ」
そこには箱に詰められた切り出された黒い棒が並んでいる
「これは?」
「初めてご覧になられましたか?黒鉛芯と言いましてお客様の探していらっしゃるものだとこちらになりますね。貴族の方にはあまり縁がないかもしれませんが、絵を描く時やメモを取る時など携帯も出来て便利なのですよ。インクもいりませんしね。これを芯ホルダーにセットして使うのです」
店員は木や金属で出来た鉛筆軸に芯をセットして見せる。
「一般的だとホルダーではなくこうやって使う方が多いですね」
黒い棒に手が汚れない様に糸や布を巻きつけて実演してみせてくれた。
ソフィアもそういえばこんな感じでメモを取っていた気がする。
木の軸で削り出す鉛筆はまだないのか。
「制服を着てらっしゃいますが、お客様の様に小さな学生は初めて見るのですけれどまだ入学には早いお年ですよね? 学院の見学ですか?」
ギクリとする。やはり違和感はぬぐえないのか。
まあ入学は4年も先なのだ。体格は如何ともし難い。
「ああ、私の弟でね。どうしても制服を着て学院を見たいと我儘をいうものでね」
王子が助け舟を出してくれた。王子だって入学はまだなのだが堂々としているせいか問題ないらしい。
「そりゃあ可愛らしいことですね。坊ちゃん、この筆記具は手軽だから授業を受ける時にも便利なんですよ。何と言ってもインク瓶をひっくり返すこともないですしね」
まあ、貴族の方はインクとつけペンがお好みですけどねと付け加えながら店員が説明してくれる。
悩んだ末、目的であった黒鉛芯に花模様の金属軸を手に取る。重いし書き味は悪そうだがどれも同じようなものだろう。
後は使いやすそうなサイズのメモ帳を見繕ってもらって買うことに決めた。
メモ帳も重厚な革製の表紙が付いたものから紙の束までいろいろ揃っている。
店員は私が学校ごっこに使う様に買い求めたと思ったらしく子供でも使いやすい機能優先のものを出してくれたお陰で、そちらはすぐに決めることが出来た。
貴族とはいえ学生が使う店なので安価なものから高級品まで並んでいるのが学術地区の店の特徴なのらしい。
さて、ここで恥ずかしながら失態を演じてしまう。
私はお金を持ってはいなかったのだ。
購入したものの支払いの段になってそれに気付いた。
この焦りをわかってもらえるだろうか?
気持ちはすっかり目当ての商品を買うつもりなのに、その手段であるお金を持っていないとはどれだけ私を落胆させたことか。
いつもは屋敷で商人が見せるものを指差すだけであったし、教会でお守りを購入した時の様な場合でも私以外の誰かが支払いをしていたのだ。
私はこの世界で自分でお金を持ったことがないのに、今の今まで気付いてなかったことに驚愕した。
買う気満々だった気分が一気にしぼんでしまう。
やっぱりいらないと付き合ってくれた店員に申し訳ない気持ちで言おうとした時、詩人が支払いをしてくれた。
「ここは私に出させて下さいね」
笑顔でウィンクをしている様は、とても頼りがいがあるように見えた。この男がここまで心強く思えたことが今まであっただろうか? いやない。
支払ってもらっておいて、とんでもなく失礼な事を考えたことをすぐさま反省した。
いつだって頼れる男なのだ彼は。
「ありがとうございます」
安堵と喜びと少しの後悔で、ついドレス用のお辞儀をしそうになってしまう。
今、自分が少年の格好をしていることを思い出してパタパタと両の手を持て余すと、それを察したのか王子と詩人が目をそらして笑っていた。




