567話 知らない名前です
ええ、そうね。
変な質問をしている自覚はあるわ。
私自身ここに来る事は想定していなかったのだもの。
そもそも目が覚めたら、知らない真っ暗な洞窟の中だったのよ。
記憶は戻らないし、黒い雄牛の要領を得ない胡散臭い手紙しか説明はないときている。
誰がどう話を伝えたかなんて、まったく理由も経緯もわからない。
伯爵に会ったら不審がられても聞かずにはいられなかったのだ。
「あの、とにかく身の振り方をいろいろな方に相談して人を間に挟みましたので、誰からどう話が伯爵へいったかとか私も存知なくて……」
そう、あわあわと弁明すると合点がいったのか、やっと口を開いてくれた。
「ああ、まあ大変だったそうだね。私に君の事を頼んだのは賢者様の付き人のペィオアルトルさんだよ。不幸な身の上の貴女を鉱山で預かってくれとね。私としてはそれくらいの頼み、断る理由は無いし貴女を館勤めにしても良かったのだが、貴族のしがらみから遠ざかりたいのが希望だと聞いている。まあ、酷い家門に仕えていたのだから分からないでもないよ」
同情するような眼差しを見るに、私とアニーがどこかの貴族に放り出された話を信じているのは間違いない。
それにしても耳にした事のない名前だ。
「ペィオ……、アルトルさん……?」
それは初めて聞く響きだし、綴りだって思い浮かばない。
しかも賢者の付き人が、私に手を貸すようなことをするのかしら?
「君の知人ではないのかい?」
「ええ、多分どなたからか、私の事を頼まれたのでしょう……」
「馴染みのない名前は、彼が異国の者だからだよ。シャルルヴィルさんと同じでね」
私はその言葉にハッとした。
「あの、ペィオアルトルさんは、もしかして背の高い、色が黒くて美しい男性でしたか?」
伯爵は頷いた。
「顔はいつもフードで隠れていてわからないけれど、背が高くて色が黒いのは確かだ」
どうやら黒い雄牛本人のようだ。
自ら動くなんてこまめな神様ね。
アニカ・シュヴァルツに黒い雄牛が付き従ってるなんて、組んでいるかもとは想像はした事はあったけれど確定すると嫌なものね。
それと同時に私は思い出していた。
ウェルナー男爵領でナハディガルが私に報告した内容を。
高慢の種を作ったと思われる裏町に住む呪術師ラムジーと、そこに訪れていた茶髪で緑の瞳の少女。
少女の連れの男は顔を隠していたが、その手は色黒く異国の者らしいと呪術師の小間使いの少年は証言したはずだ。
こんな遠くまできて、月日が経ってからあの件について触れる事になるなんて。
その連れは黒い雄牛で間違いないだろう。
神様が関わっているなんて、証拠が出てこないのも頷けた。
それでも少女と異国の者というアンバランスな2人連れを証言出来る人が、ここに現れた事に喜ぼう。
それにしても、黒い雄牛は何をしたいのだろう。
私を破滅させたいなら、アニカ・シュヴァルツを利用しなくてもその超常の力でいくらでも出来るだろうに。
今回に至っては、私に力を貸したような事を書いていたし、目的が何か全く分からない。
支離滅裂な遊戯にでも参加している気分になってくる。
私はこめかみを押さえて首を振った。
「それは私の知っている人ですわ。あの方の名前を知らなかったので、おかしな話をしてしまいましたわね。フルネームを聞かせてもらっても?」
「ええと、たしかHant・Peyoaltrだったかな」
伯爵は疑いももたずに、あっさりと教えてくれた。
ちゃんと名前があるのね。
そして実体もあるようだ。
そういえば赤子の頃に訪ねてきた黒い雄牛は、ここに「体を作った」から「いつかすれ違うかも」と再会をほのめかしていたけれど、あれは予告だったのだわ。
ハントさんね。
神様の名前は隠されているものだから偽名だろうけれど、変わった綴りであるのは間違いない。
私のこの偽名が言葉遊びであるように、神様のこの風変りな名前にも意味があるのかしら?
「伯爵はペィオアルトルさんと交流がおありなのですか?」
その質問に、ふっと表情に陰りが見えた。
「ああ、君も知っているかもしれないが、彼は賢者様の従者でね。朧水晶の発見時にも同席していたし、うちの領は賢者様のお陰で暮らしも楽になったので、彼らには返せない程の恩があるんだ」
溜め息混じりにそう答えたけれど、世話になったといいながらどこか厭う雰囲気を漂わせていた。
「そうだったのですね」
「新しい鉱脈と引き換えに手にしたものは、果たして私が望んだものだったかどうか……」
そう呟いた彼は、遠くを見る様に目を細めた。
新しい鉱脈は名誉と豊かさをもたらしてくれたが、慎ましやかで穏やかだった夫人が変わってしまったのを私は知っている。
賢者に変えられてしまったというべきか。
伯爵は後悔しているのだ。
貧しいままであったなら、彼らはお互いを思い合いながら死ぬまでよい夫婦であったかと思うとやるせなさがつのった。
閑散とした領主館。
何かが抜け落ちたような伽藍洞な雰囲気。
その手放した平穏な幸福と、彼の現状は見合うものであるとは思えなかった。




