556話 置いていかれたものです
その言葉と共に、少女の口から黄色い糸の塊のようなものがうねうねと出てきて宙に浮かんだ。
それはぬらぬらと光り、そして泡立ち、まるで意志をもつかのように動く。
焚かれたとても爽やかな森林を思わせる匂いにほのかに果物が熟れた甘い香りが混ざる煙が立ち込めているというのに、ラーラの鼻腔を汚物のような耐えられない臭いが襲う。
明らかにその黄色い何かの臭いだ。
嗅いだことの無い異臭に、彼女は反射的に手で鼻を抑えて少女から片手を離してしまった。
そして次の瞬間には、その浮かんだ塊と耐えがたい臭いは霧散して消えてしまう。
辺りには清々しい香の匂いのみが残された。
腕の中の少女が、だらんっと力が抜けたかと思うとそのまま床へと落ちる。
「シャルッ……」
それの名を呼ぶのに躊躇した。
何故ならそこにあったのは、出来の良い人形であったからだ。
彼女は確かに人間が、柔らかな皮膚をもつ少女が、無機質な人形へと変わるのをその手で確認した。
呆然としているラーラを見ながら、ダンプティが「ほらね」と、言うかのように肩をすくめてみせた。
ぷはっ!とギルベルトが水面に顔を出した時のような大きな息をした。
どうやらこの逼迫した状況に集中し過ぎたのか、息を止めていたらしい。
「なんだい? なんだい? なんだい? 今のは一体なんなんだい!!」
目を見開いた学者はダンプティを揺さぶりながら興奮冷めやらぬ様子だ。
「ほうれ、見よ。人形に木の歯車を入れ込んだ、よう出来た絡繰り人形であることよ。大方、時計仕掛けの神の力でも借りたに違いない。その歯車ははらわたを模して、仮初の命を人の形の入れ物に注いでいたのである」
「いやあ、目を疑ったよ。これは、これは、なんという技なんだい? こんな事が目の前で起こるなんて信じられない! ああ、なんて事だ」
神話的事象を追うギルベルトだが、実際にそういうものを目の当たりにした経験は少ない。
彼の領域は研究室や図書室であり、その蓄積した知識を振るう事はあっても自身が当事者となることはそうあることではないのだ。
興奮してしまうのも仕方がないといえよう。
「取り換え子の代わりに置いていかれるのは異形の子供か、魔法の丸太と相場は決まっておる。魔法の丸太、まあ今回は魔法の人形というのがいいかの。それはそっくりさんと呼ばれて攫われた子によく似ているが歩行が難しく、決まって病に伏したような様子であるという。そうして、たちまちのうちに衰弱して死んでしまうのが相場と決まっておる」
床に倒れた人形は、シャルロッテと同じ大きさで目に見える肌の部分は陶器で出来ている様に見えた。
いわゆる磁器人形であるようだ。
「なるほど、これはまさにそっくりさんというわけなんだね。取り換え子として置いていかれた替え玉が死んでしまえば詮索もされず、攫った子供を取り返しにくる者もいないと……。よく出来た話だ」
そう、まさに今がその状況である。
寝込んだ少女を心配して看病することはあっても、誰も攫われたとは思いもしなかったのだ。
ラーラはしばらく動くことが出来ずに、少女を抑えていた自分の手を呆然と眺めていた。
「それでは、我が主はどこに……?」
「まあ、連れてかれたのであろう。フェッチを置いていくというのはそういうことである」
ダンプティは、床に倒れている少女人形をゴソゴソと検分しだした。
病床の為、衣服は寝間着だけであったのでぺらりとめくれば体部分が目に入る。
腹の部分が外れるようになっていて、外すと中が見て取れた。
その様子はまるで少女の遺体を暴いているような、退廃的な光景である。
「関節には球体が使われて可動するように出来ておるようだの。目は硝子玉、五臓六腑の代わりに木の歯車がぎっしりと……。これだけ作り込まれていれば半年ぐらいは家人を騙しおおせたろうに、我がいて気の毒をしたの。さぞかし手を掛けただろうに」
その出来に魅せられたかのように、少年はその製作者に同情的に呟いた。
「何を呑気な! ああ、シャルロッテ様を、探しに行かなければ!」
「探すったってどこを? 残されたコレに手掛かりがあるかもしれないだろ? そう焦っちゃだめだよ」
激高するラーラをよそに、少年と学者は人形に夢中だ。
「おや? これはなんだい?」
人形の裏側を見ようとひっくり返すと、その肩甲骨の間の真ん中に小さな文字が彫られていた。
てっきり製作者からの伝言か記名かと思ったけれど、それは他愛のない言葉でしかなかった。
「んー? ん? 『もう、いいよ』?」
それは、子供が遊びでかくれんぼをした時の返事をする時のような、どこにでもある言葉。
それをギルベルトが読み上げた瞬間、ガタンっと壁際で音と叫び声がした。
「きいいいいいいいいいいぃぃぃ! あの雄牛とかいうの! よくもあたし達を!!」
それはアリッサの声だった。
「信じられない! なんなのあいつ!」
感情に任せて叫びまくり、ダンダンッと地団駄を踏んで悔しそうな顔をしている。
仔山羊と小鳥も身が自由になったかのようで、各々が頭を振ったり毛づくろいをし始めた。
「どうやら、解呪の言葉だったようだ」
びっくりしたまま少女の従者達を3人は見つめた。




