555話 香りです
この世界で、食文化よりも発達しているのが香り文化である。
薬はもとより、香料にもなる薬草の栽培は修道院の薬草園をはじめ一般の路地などでも盛んに行われており、街の周辺や街道脇には魔物避けの草木を植えるのが必須とされている。
入浴習慣が浸透していない世間では香りで体臭や部屋の悪臭を誤魔化したりするのが常で、その他にも独特な皮革製品のなめし剤の匂いを消すのにも香料は欠かせないものだ。
その為、調香師は日常に使われる伝統的な香りはもとより、調合により新しい香りを生み出したりとある種、憧れの職業でもあった。
香料屋も多く、それぞれが地の物を扱ったり輸入品を扱ったりと特色をもたせて繁盛している。
そして香りは精神的な護りとしての側面も大きく、香を焚く事で死の気配や疫病を遠ざけるという呪い的な使われ方もあり、生活になくてはならないものであった。
「どれも場を清めるものだね。聖樹は初めてお目にかかるな」
聖樹と呼ばれるそれは、小さな木片で使用人が四苦八苦して見つけてきたものだ。
その小ささからは想像もつかない程、値段も香りも高いときている。
「神の木とも呼ばれる希少な樹であるから、あまり出回っておらぬものよ。手に入らねば大量のホワイトセージを焚くところであったよ。聖女の寝所を燻製所にするには少々忍びなくてな。効能もこちらのほうが確かなのだ」
そういうと手慣れた様子で、香炉に置いて火をつけていく。
「煙に追われて逃げ出すのは鼠か蟲か、はたまた悪しき幽鬼であるか」
三筋の煙が立ち上がり、その香りがふわりと広がっていく。
それに反応して、寝台の少女は首をくるんとこちらへ回し煙を凝視した。
ギルベルトはその時になってようやくシャルロッテと思わしきこの生き物が、目を瞑ることはあっても瞬きをしていない事に気がついた。
その不自然さに、もしかしたらこの少女は呼吸もしていないのかもしれないという、とりとめもない疑惑が頭をよぎった。
それとなく胸を上下させるだけで、息をしている振りをしているのではないかと疑ってしまう自分に苦笑したほどだ。
煙が、風もないのに揺らぐ。
そうして、それをおとなしく見ていた少女の眼球がぐりんと回ったかと思うと、次の瞬間には、香炉に飛びついていた。
ベッドから飛び出した少女が香炉を置いた机にぶつかる勢いで飛び掛かるのを、ラーラがすんでのところで抱き止める。
これにはダンプティとギルベルトも肝を冷やしたものだ。
「お手柄ぞ、ヴォルケンシュタイン殿。その丸太がそんなに素早く動けるとは思ってもみなんだ。そのまま留め置いておくれ」
咄嗟に体が動いたラーラだったが、この腕の中の少女が得体の知れないモノに思えて仕方がなく戸惑っていた。
何故、今までこれを自分の主人だと思っていたのか。
この生き物ですらないかもしれないモノを見て、何故自分は心を痛めていたのか。
そんな疑問が幾つもわいて、心をいっぱいにしていく。
「……ダ、……め、……」
少女は、手を香炉に伸ばしてその火を止めようとしているのは明白だ。
「我は祭祀ではないので、清めの言葉も知らぬ身であるけれど香りというのは古来、虫を払い邪を払い場を清め、人に活力や幸運をもたらすものと信じられてきた。そう、人の信心により、いっそう効果を高めたこれらは、香りを満たすだけで簡易的な聖域を作り出すことが出来るものなのだ」
ダンプティは、自信たっぷりに少女を見据えてそう語った。
「ヤ……、や、メ」
ラーラは、腕の中の少女が小刻みに震えだすのを体感する。
不思議なことに香炉から立ち上った煙は、意思をもつかのようにラーラが抑えている少女の方へと導かれるように、ゆるやかに流れだした。
そうして、小さな白い手で掴むかのように、少女に煙がまとわりついていく。
「さあ、よこしまよ、さかしまよ。此処は聖なる息吹の満ちる場所。歪な命を吹き込まれたそこなヒトガタを離れ、お主のあるべきところへと帰るが良い。然るべき形へ戻るが良い」
三筋の煙がどんどんと少女の毛先や足先にまとわりつき、そのまま全身を覆う勢いである。
ガタン、ガタンと音を立てて少女が上下に跳ねて逃げようと暴れ出す。
それは木片を床に叩きつけるような音で、人の子供が出す音ではなかった。
そうこうするうちに、煙は絡み合いながら少女を包んでいき、暴れる少女は静かになった。
ラーラがほっとしたつかの間、ガクンっと少女の首が後ろに倒れる。
それに驚いて手を緩めそうになったが、自制心を奮って押しとどめた。
ラーラが動じないのを見ると、次の瞬間には、顔を前に突き出してギョロリと目を見開いてダンプティを睨んだ。
「アぁ……、あ……、ざ……んネ……ン、バレ…ちゃッタ……」
抑揚のない乾いたカタコトの声が、その口から洩れ落ちた。




