544話 機嫌取りです
この人は私を使って伯爵にもっと取り入るつもりでいるようだ。
今のところは私を害するつもりがないのが分かっただけでも収穫だ。
「味見していただけて助かりましたわ。では夕食を楽しみにして下さいね」
そう言って切り上げた時、グンターの後ろで何かが動くのが目に入った。
どうもスヴェンが盗み聞きをしていたようだ。
まあ、こんなところで立ち話をしているのだから気になるだろうし、もしかしたら私の声を聞いて挨拶しようと出てきたのかもしれない。
不器用なスヴェンのことだ、グンターと私の会話に入るタイミングを逃したのだろう。
下手に声を掛けていたら、また怒鳴られるのは目に見えているしね。
こういう短気な人の扱いに慣れてしまうのは気の毒なことである。
真っ当な人間相手なら必要ない慣れだもの。
この鉱山で一番の苦労人は、きっとスヴェンに違いない。
労いの意味も込めて2人分の味見を用意して、彼にもおやつとして渡してあげればよかったわ。
それにしても、グンターの話では伯爵は真面目で面白味はなさそうな人のようだ。
夢のあの人も、夫は真面目だと言っていたっけ。
そんな人でも夫人の不貞を知り人の命を奪ってしまったのだ。
悪いのは夫人の行動とはいえ、扇動したのはアニカ・シュヴァルツなのだと思うと、複雑な気持ちになる。
彼女のせいとはいえ、夫人はそれに抗う事も出来たはずだ。
蜜の味を知らなければ、その身を堕とさずにすんだだろうに。
世の中は理不尽だ。
オイゲンゾルガー伯爵夫婦を不幸にしながら、彼女は何の罪にも問われていないのだから。
そんな事を考えながら、ふと足を止めた。
待って、おかしくないかしら。
さっき、グンターはなんと言っていた?
「死んだ女房に義理立てしても1文にもならない」
そう言っていなかったかしら。
世間的には、彼女は従僕の男と駆け落ちしたって事だったわよね。
グンターは、伯爵夫人が死んでいる事を知っているのだ。
勿論、真面目だという伯爵がなんらかの方法で手に掛けたことも。
それにグンターも関わっている可能性もあるということなのだ。
そう思い当たった途端に、自分が薄氷の上に立っている気分になった。
憂鬱な気分のまま食堂に戻って、食糧庫から塩をすり込んで保存してあった涙猪の肩肉の塊を運び出す。
肉切り包丁で切っていくが、これが中々疲れる作業だった。
なにせ肉は大きいので切るのにも力とコツがいる。
こんな時はスーパーで売っている用途に合った様々な切り方のパック肉が恋しい。
幸いにも包丁の切れ味がいいのが救いだ。
きっとジーモンがロルフの為にこまめに手入れをしてくれているのだろう。
適当な大きさになった肉に、刻んだ薬草を擦り込んで寝かしておく。
その間に料理用の栗の皮を剥いて、いつでも使えるように準備を進めていく。
手を動かしていると余計な事を考えなくていいのが楽だ。
グンターと細工師の暴力も、伯爵夫人の事も、消える鉱夫と子供の事も、ずっと心に抱えているのは精神的にも良くはない。
今は思考を手放して、料理に集中しよう。
ああ、せっかくの栗だもの、煮込みもいいけれど日本米があったら出汁の効いた栗ご飯にしたかったわ。
付け合せは天ぷら?
そうね、秋だし舞茸がいいわね。
だし巻き玉子もどうかしら。
それとも三葉を浮かべた茶碗蒸し?
そんな取り留めのない献立を頭の中に巡らせていると、げんきんなもので気持ちが上向きになってくる。
そう、こうやって重い事柄から気を反らせて自分の機嫌をとるのも、生きていく上で大事なことよね。
釜戸に大鍋を置いてから鍋肌が熱くなる間に野菜も切っておかないと。
付け合わせはなにがいいかしら?
スープとパンだけで上等というけれど、日本の食卓を知っているからか、もう少しなにかと考えてしまう。
人参は艶煮にしようか、千切りにして檸檬と油で合えてキャロトラペにしてもいい。
それともスープで馬鈴薯を潰したものを延ばしてマッシュポテトがいいかしら。
本当なら夕方の作業だけれど、ロルフが寝てる間に仕上げてしまってもバチは当たるまい。
彼は、毎日夕方から朝まで食堂に詰めているのだから、たまには楽をするのも必要だ。
この時代はまだ労働の基準や人権が確立していないせいか、休日というのも曖昧だ。
上級から中級の家庭の一部では、安息日に教会へ行ったり明確な休日があるけれど、労働階級の人間は年末や社交シーズンに合わせて一定の期間まとめて休みを取るくらいで、毎週確実に休めるという訳ではない。
貴族の館の使用人は、社交シーズンやバカンスで住民が別の土地に行っている間に休むことも出来るけれど、大概は月に数える程の休日だ。
劣悪な環境では、休日が無いことも普通なのだと聞く。
ロルフはどちらかというと、給料は良くてもブラックな環境に置かれているといっていいだろう。
調子補助にもうひとりか2人雇っても罰は当たるまい。
そう考えると、私はかなり楽をさせてもらっているのよね。
もう少し手伝いたい気持ちはあるのだけれど、そもそも軽い仕事を割り当てるよう伯爵から言われているらしい。
それはきっと黒い雄牛がそうしてくれたのだろう。
どこまでが神様の仕業なのか、さっぱりわからない。




