543話 味見です
ここまで来て、気後れするなんて。
今一歩が踏み出せない。
もしかしてそれは言い訳で、単に胸が悪くなるような人間に近付きたくない私の本心のせいかもしれなかった。
バタンッ
突然、戸が開いた。
中からはグンターが出てきた。
まだ心の準備が出来ていないのに。
あちらもこんな所に私がいることに驚いたようで、目を丸くしている。
手が震える。
クロちゃんに初めて会った時もビーちゃんの時も、怖いとは思わなかった。
私にとって異形の者よりも怖いのは、普通の人間のふりをしながら他者を踏みにじれる歪な心を秘めている生き物なのだと知る。
私は緊張に跳ねる心臓を抑えつつ声を掛けた。
「まあ! ごきげんようグンターさん。夕食のデザートの味見をお願い出来る人がどなたかいないか探しているうちに、こちらまで来てしまいましたの。なのに、どなたもいらっしゃらなくて困っていたところですわ」
私の声は随分とわざとらしく、高く聞こえた事だろう。
とんだ大根役者だわ。
舞台女優は私には無理ね。
「ふん、婆さんか。ロルフはどうした? ああ、奴は寝てる時間か」
私の素振りを気にするふうもない。
この人にとって周りの人間の動向などどうでもいいのかもしれない。
私は腹を決めて、皿に乗せた栗のブランデー煮を差し出して、にっこりと笑顔を浮かべてみせた。
気のいいおばあちゃんに見えてるかしら?
「季節の栗ですわ。おひとついかが?」
グンターの口角は胡散臭そうに下がっているけれど、その視線は確かに興味深そうに皿の上へそそがれていた。
食べる事には関心があるのね。
そうしてしばらく眺めてから、わざとつまらなそうに栗を摘まむとポイっと口へ放り込んだ。
勿体ぶった仕草だこと。
時間をかけて咀嚼している。
案外、甘いものが好きなのかもしれない。
「……。ふむ、いいんじゃないか? 酒の風味も効いてるし上等な味がする。悪くない」
なんと、意外にも感想をくれた。
「今晩の煮込みにも栗を使いますのよ」
「栗を料理に? 食えるのか?」
大層、意外そうに聞き返してきた。
やはり、栗を料理に使う事は一般的ではないみたいね。
私も王宮で食べたきりだもの。
珍しい料理はこの人の気を引いてくれるだろう。
「ええ、私が身分の高い方の食卓で頂いた時に、作り方を教えてもらった異国料理のひとつですわ」
身分の高いという言葉に、グンターはピクリと反応する。
「そうか……、うん、身分の高いか。そうか。そんな珍しい料理なら、伯爵にも食べてもらわないとな。貴族はそういうのが好きだろ? 夕食前にスヴェンをやるから、山の上に届けさせてくれ。他にも貴族に相応しい料理があれば作っていいぞ。覚えが良ければお前も料理人として伯爵に取り立ててもらえるかもしれないしな」
「まあ! 光栄ですこと。気に入っていただけるといいのですが」
「こういっちゃなんだが、山の上の料理人が作るのは田舎料理ばっかりでな、つまらん食事らしい」
グンターの話では、どうやら伯爵家の厨房を預かっているのは昔からいる使用人で、目新しい料理や貴族向けの料理は作れないらしい。
昔からという事は、新しい鉱脈が見つかる前からということだ。
貧しい時代から、薄給で勤めてくれていた人間をそのまま雇っているのだろう。
そう考えると、その料理人の腕前がそこほど高くないのは納得出来る。
もしかしたら、料理の修行をしたことがない領民の可能性だってある。
羽振りが良くなったというのに、昔ながらの使用人を雇い続けるのは、恩義に厚いといっていいけれど、それでは貴族の付き合いに差しさわりもありそうだ。
「客が来る時は、わざわざそれ用によその貴族の料理人を借りるらしいからな。婆さんが伯爵の料理人になったら、俺の事を上手く伯爵に言ってくれよ。特に賃金をあげてくれとかな」
そういって彼は機嫌よく笑いだした。
捕らぬ狸の皮算用というやつだけれど、グンターはすっかり私が伯爵に気に入られると信じているようだ。
「そうなるよう努めますわ」
「ああ! あんたがこんなに使えるとは思わなかった。もっと若けりゃ伯爵の後妻も狙えたのに残念だな。良さそうな娼婦を伯爵に斡旋しても、どいつも追い返されてきちまう。死んだ女房に義理立てしても一文にもならないっていうのにな」
下世話な話をとくとくと語っている。
こんな人の話に付き合わなければいけないなんて、うんざりしてしまう。
一途で結構なことじゃないの。
「真面目な方なんですね」
「ああ、真面目も過ぎると毒ってもんだ。朧水晶でぼろ儲けしてんだから、もっと景気良くすりゃいいのにな。いっそ悪党になっちまえば楽なのによ。いつも辛気臭いったらありゃしねえ」
仮にも自分の雇い主だというのに、言いたい放題である。
それにしても、ぼろ儲けという程売れているのか。
出荷を絞ってるようなことを聞いたけれど、そのせいで値が吊り上がっているのかもしれない。
私には宝石の相場なんてわからないし、貴族の嗜みとして少しはロンメルに宝石について教わっておけばよかったかしら。
とりあえず今日も伯爵に私の料理を届ける事が決まったし、この辺にしておこう。




