536話 猟師です
老女は皮手袋を取ると栗の木の葉を1枚、枝からちぎった。
この沈黙を持て余しての、取るに足らない所作。
特に意味もない行為だったけれど、それは鉱山で生まれ育ったジーモンには、ひどく優雅な動作に見えて、まるで精霊かなにかのように思えた程だ。
「この鉱山で、文字が書けるのはグンターさんとスヴェンさん、そしてあなた」
老女は、はしゃぐ少女を抱きとめて目を伏して続ける。
「この鉱山で、早朝から働いているのはロルフさんと私、そしてあなた」
男は弁解するように、たまたま鉱夫の中に早起きで文字が書ける人間がいたかもしれないと主張しようとしたけれど、喋れないので伝える方法がなかった。
「昨夜遅くに食堂に行きましたの。普段は早く引けてしまうので知らなかったのですが、それはもうすごい喧騒でしたわ。鉱夫の皆さんは揃ってお酒を煽って博打をして、その後、女性を抱きに行くのですって。やんちゃでしようがない殿方達と思いませんこと? あの方達には、とても早起きなんて出来そうにないこともこの目で見ていますわ」
静かに、それは静かに彼女は自分の意見を羅列した。
せめてこの老女が激高して詰め寄ってきてくれれば、冷たくあしらって無視できるのに。
まるでお茶の種類でも語るようにその口調は恬淡としていて、尚且つ聴く者を捉えて離さなかった。
「何故、私達を追い出そうとするのですか?」
そうして同じ質問が繰り返された。
追い詰められている。
猟師は今、獲物の気持ちを理解していた。
初めは冗談かと思った。
貴族上がりの老女が、この鉱山に来るなんて。
しかも、年端もいかぬ子供を連れて。
嫌がらせの犯人は確かに彼であった。
ジーモンは悩みに悩んだ末、早朝に彼らの住居の前に解体した時に出た魔獣の血で✕と大きく書いた。
その血はまだ腐敗はしていないが、屋外であっても辺りには血の匂いが十分漂っていた。
大概の女というものはこうした不浄の物を嫌うものだ。
これを見た老女は、きっと驚き恐怖するだろう。
娼婦達が、小さな虫でさえ声を上げて大騒ぎするのを見た事もある。
女とは、迷い込んできた蛇や獣を指差しては、きゃあきゃあと五月蠅く喚き散らす生き物だと認識していた。
男はあまり女性というものを知らないが、これまで鉱山での働き手としてきた女性達には狩りや鍛治で汚れた衣服を見て眉を顰められた。
女性達は砂埃をあびる鉱夫には慣れていたが、血や油汚れを付けた猟師とは交流がないのもあって厳しい目を彼に向けていた一面もある。
ジーモンの人見知りもあって、うまく関係を作る事が出来なかった結果、彼は人目を避ける様に行動するようになってしまった。
ジーモンにとっては、女という生き物のは理解出来ないもので関わり合いたくないものであった。
虫でさえ騒ぐのに、ましてや血や汚物など耐え難いものであるはずだから、それこそ裸足で逃げて行くだろう。
万一、気絶して倒れてはいけないのでと、彼は茂みに隠れて成り行きを見守った。
「いってきますわね」
そう言って小屋から老女が出てきた。
ふと疑問がわいた。
不思議だ。
同居人は子供ひとりのはずであった。
出掛ける挨拶をするなんて、こんな早くに子供が起きていたのだろうか。
育ちが良くて家の出入りのたびに挨拶をする癖がついているだけかもしれない。
貴族の暮らしなど見聞きしたこともないので、そんなふうに自分の中で疑問を片付ける。
それが正解でも不正解でも構わなかった。
そうやって自分が納得する事だけが大事なのだ。
戸を開けて、老女は驚いたように地面の血を見ていた。
悲鳴をあげるか、走ってこの場から逃げるか……。
辛抱強く息を潜めて見守る。
どんな行動に出るかと待ちながら、不意に彼女の口の端が上がったのを猟師の視力は見逃さなかった。
笑った?
確かに老女は笑っていた。
何故だ、怖すぎておかしくなったのかと心配したものの、次の瞬間には井戸から水を汲んできてテキパキと地面を掃除しているのだ。
こんな事はあるものなのか?
ほとんど鉱山の生活しか知らないジーモンは、自分の常識では測れない怪しい老女を警戒した。
猟を休む雨の日以外は、なるだけ小屋の前に血を撒いたり✕をつけたり堆肥になりそうな発酵した臭いのする腐葉土などを散らかしたりと、彼の考えうる嫌がらせを続けていたけれど、一向に怖がる素振りを見せなかった。
ある日、彼女が何故か古い布を川で洗っているのに出くわした。
娼館の女達に任せればいいものを。
彼女達は洗濯女も兼ねているので、洗濯物はあちらへと任すのが常だ。
顔を合わさなくても印を付けた籠に洗濯物を入れて娼館の水場へ出しておけば、後日、洗って干されたものが籠に入れられて返ってくる。
他所は知らないけれど、この鉱山は鉱夫は多く採用するのに対して、他については妙に人材を絞っていた。
吝嗇家であるということではなく、単に持ち主の伯爵が人の出入りを嫌ったからだ。
そのせいで鉱夫以外はいろんな仕事を掛け持つこととなっていた。




