55話 黄衣の王の話です
その風は華やかに聖堂内を吹き抜けて消えた。
教会の人間も参列者も奇跡に打ち震えている。
まるで全員が息をするのも忘れたかのように静かだ。
ハイデマリーは傷の無くなった左手を見て涙を零している。
なにかが起こったのはわかるのだけれど、この場をどうすればいいのかはわからない。
祭司長を見ると毅然と儀式を見守らなければならないのに聖母子像に跪いていた。
何てことだ、すべて彼が取り仕切る手はずだったのに。
このまま壇上でボケっとしていても仕方がない。畳みにかからないと。
「黒山羊様の慈愛によりハイデマリーの穢れは祓われ、それは浄められました」
なんとか頭をひねったものの短文しか出てこなかったが、それを合図にしたかのように歓声があがった。
「黒山羊様のみならず黄衣の王までが祝福を!」
何か口々に叫んでいる。
黄衣の王というのはこの世界の宗派のひとつで、名状しがたき者と呼ばれる神のひとりだ。
黒山羊様の夫とされて風を司っているらしい。
世界を駆け巡るその性質や逸話から遊牧民や羊飼いの神とされ信仰されている。
なるほど、先ほどの風はその王様の仕業ということか。茶会の時もその人が手伝ってくれたのかもしれない。
花びらを巻き上げるなんてなかなか憎い演出ではないだろうか。心の中で感謝する。
黒山羊様のとこのクロちゃんが頑張ってるので見に来たのだろう。
呆然としているナハディガルに目配せをすると、やっと我に返ってくれたのか祭司長に駆け寄って起き上がらせている。
信心深いからこそ神の力の前で動けないのだろうが、ここの収拾が付かないのは困る。
「今日この善き日に神の御業をもたらした聖女と、黒い仔山羊に感謝を。ここにハイデマリー・レーヴラインは神に祝福された身であることを宣言する。今ここにいるあなた方はその証人として神の偉業を喧伝する資格を得た。神はいつもあなたを見ておられる、ゆめゆめ忘れることなかれ。すべては黒山羊様の導きのままに」
「すべては黒山羊様の導きのままに」
そこにいるすべての人が復唱し、大聖堂の中に響き渡った。
この響きが黒山羊様に届いて彼女を支えていくのだろう。
信仰と共に寄り添い歩む神。私は自然と黒山羊様に頭を下げた。
偽儀式はこれで終了した。
偽といいつつも実際に神の力が顕現したのだからもう偽ではない。
ハイデマリーの為に開かれた儀式は、彼女の心を救ったのだ。
最後まで静かに彼女は泣きながらコリンナに支えられ聖堂の奥へ消えていった。
祭司長は両手を組んで満足そうに興奮しながら、退出する参列者達を壇上から見送っている。
初めて神の力に触れたとみられる聖教師や堂役は、感激のあまり動けないのか同僚に介抱されていた。
今後その信仰はより深くなり黒山羊様に仕えるのだろう。
黄衣の王がまき散らした白い花びらの掃除はさぞかし大変だろうと思ったが、参列者達が各々拾いながら出て行ったので、最後のひとりが退出した後は床の上は綺麗になっていた。
今日の奇蹟の証拠として乾燥させて記念にとっておいたり、近隣に配るのだろうとナハディガルが教えてくれる。
ふむ、神社で餅撒きとかあったけどそういう縁起物みたいなものか。
「シャルロッテ・エーベルハルト。ドラッヘンハイム大聖堂祭司長ゲオルグの名に置いて正式にあなたを聖女と認定いたします」
祭司長が恭しく私に頭を下げた。
「いえ、これはクロちゃんがもたらしてくれた奇蹟ですので私は関係ありませんわ」
「確かにクロ様は黒山羊様の落ち子。しかしながらあなたにもその寵愛は降り注がれております。それを否定するのは失礼にあたりますよ。かの女神の寵児なのですから聖女に相応しくその事実を受け止めるよう努力して下さい」
拒否するのはいけないと言われるとどうしようもない。
こうして私はこの国の聖女になることになったのだ。
どうしてこう逃れられないことばかりが起こるのか。
これも黒山羊様の転生サービスだと思って受け入れるしかないらしい。
諦めた私に声がかけられた。
「大役ご苦労であったエーベルハルトの姫よ」
低く耳に響く声。この声を覚えている。
心が勝手に期待をする。
胸を躍らせて振り返るとそこには王子に連れられたノルデン大公がいた。
「本来なら国王から労うものなのだが、奴も多忙でな。フリードリヒに言われて私が国の代表として一言礼を言いにきたのだ」
今日も威厳のある佇まいで何もしていないのに絵になっている。
王子は私と目が合うと気まずそうに少し笑った。
苦い笑いだ。
大公と私を会わせたくなかったはずだ、でもきっと優しい彼は私が一番喜ぶことを用意したいと思ったのに違いない。
その思いに目頭が熱くなった。
こんな面倒くさい身の上の私でなければ、誰もが恋焦がれてもおかしくない王子様だ。
「労いの言葉ありがとうございます。先日は、はしたない真似をしてしまい申し訳ありませんでした。本日の成功は協力してくれた皆様となにより尽力して下さった王太子殿下のお陰です」
胸がバクバクするのを悟られないように、冷静を心がけて礼をとる。
「ほほう、謙遜も知っているのだね。ますます魅力的な淑女だ。私が小僧の歳であれば、すぐにも求婚するところだよ」
ハッハッハと痛快な笑い声をあげる大公に、私の顔は勝手にぼっと熱くなる。
「君のお陰でフリードリヒが本気を見せてくれるようになってね。この爺をライバルに見るとは、我が孫ながら骨があることだよ。追い越すには何年もかかると思うが、彼の成長の意味でも君には感謝しているよ」
ああ、やはりこの人には私は一人の少女にしか見えていないのだ。
私の全部を説明をしても理解はされないだろうし、それでも恋愛対象として見てもらえるわけでもないだろう。
ぱっと燃え上がって、消されたような恋心。
寂しいようなどこかでわかっていたような諦めの気持ちがじわじわと広がっていく。
だけどそれは決して悪いものではない。そう、無いよりあった方が良いものだ。
ここで泣いてしまってはせっかくの王子の気遣いも無にしてしまう。
つらいのは彼の方だろう。
「フリードリヒ殿下に感謝いたしますわ」
そう言って彼に対しお辞儀をすると、意外そうに王子は私を見た。
自分は眼中にないだろうとでも思っていたのだろうか。庭園の時の様に。
彼が大人になってこうやって手配してくれたのだもの。私も少しはちゃんとしなければ。
人は手に入らないものを欲しがる。本当に上手くいかないものだ。




