533話 こめられた意味です
朝起きて小屋を出ると、地面に大きく文字が書かれていた。
Hau ab
子供のような拙い文字。
その辺に落ちている枝で書いたのか、引っ掻き傷のような線である。
血で✕と描いてみたりしていた嫌がらせが、とうとう痺れを切らしたのか文字として明確に意思を伝えてきたのだ。
これまでの行為は、こちらを怖がらせる為でもなく、ただ嫌な思いをさせる為でもなかったのだ。
それは、出ていって欲しいという誰かの主張であった。
こんな不穏な場所から出ていけるものなら、さっさと出ていきたいのだけれども先立つものはない。
鉱山には、移動用に何頭かの馬も飼われているけれど、それを使ったとしても私の乗馬の腕では荷物かアニーを落としてしまいそうだ。
その前に、馬を貸してもらえるとも思えないし、盗んだとしてもあの重い門を馬と私では突破できない。
食料を載せた街からの馬車が来るのは週に1度だし、それ以外では新しい鉱夫を迎える時くらいだという。
頼めばその馬車が街へ帰る時に乗せてもらえるかしら。
それとも荷台に潜り込む?
そうして街について無一文のまま途方に暮れるなんて、アニーを抱えて出来るわけがなかった。
運良く孤児院を見つけて彼女を預けたとしても、グーちゃんと鉱山前で別れた時のあの嫌がり方を思うと、泣きわめくアニーは孤児院でも厄介者にされるかもしれない。
黒い雄牛は上手いことやってくれたわね。
生活に困らないお膳立てをここに用意してくれたお陰で、簡単には出ていかれない状況を作っているのだ。
条件が悪ければ早々に鉱山を出ただろうけれど、私はここの生活を楽しんでしまっている。
策略めいた甘い罠だ。
地面に書かれた文字をジッと見つめる。
今日は、血を使っていないだけマシだわね。
私はため息をついてから箒で地面をはいて、その文字を消した。
こんな風に心の憂いも消せればいいのに。
そのまま、いつものように食堂へと向かい手伝いを始める。
水を汲んだり野菜を切ったり掃除をしたり。
酔っ払いが荒らした食堂を整えるのもひと仕事だ。
せわしなく動いたところで心は晴れなかった。
「出ていけ」か。
あれを書いた人は何故、ここから出ていかせたいのだろう?
貴族の女が気に入らないから?
その可能性は高いけれど、ここでの生活を続けてある程度受け入れられてきたと思うのだけど、こんなにしつこく続くものかしら。
いや、私自身がどんな人間かは相手には関係ないのかもしれない。
最初から私を追い出そうとしていた訳だもの。
私に、ここにいて欲しくないのだ。
その理由はなんだろう。
ゴミ捨て場の死体を見られたくないから?
死体を捨てる邪魔だから?
うーん、小屋に何か埋めてあって掘り出したいとか?
小屋には埋め立て後などないし、もう死体を見てしまった。
さっぱり分からない。
「ロッテ婆さん、昨日も大活躍だったけど、どこで賭け事なんて覚えたんだ? いけない婆さんだな」
ロルフが胡散臭そうに聞いてきた。
この人とはすっかり打ち解けて、ここでの私の保護者のようなものだ。
彼がいなかったら、それこそ早々に無一文でここを出て行ったか、泣いて暮らしていたかもしれない。
「あら? あれくらい貴婦人の嗜みというものでしてよ。刺繍みたいなものですわ」
すましてそう返したものの、私の裁縫の腕はそこほど高くない。
ハンカチに落書きのような黒い仔山羊の刺繍をしてから、まだ何年も経っていないのだもの。
今、刺繍をしてみせろと言われたら困ってしまう。
いろんな事件もあったし、王太子の婚約者としての教育や社交もあった。
ロンメル商会との事業の立ち上げなども忙しかったのだから、刺繍の腕前が上がらなくても仕方がないと心の中で言い訳する。
この老女の見掛け通りなら、さぞ優雅なこしらえを用意出来そうなものだが、残念ながら外見と違って中身は変わってないのだ。
「へっ! そんな貴婦人がいるかよ!」
すっかり慣れて軽口も飛び交う。
「なあ、今日の夕飯は何がいいかな。昨日の煮込みは絶品だったからな、何か案を頼むよ」
困ってというよりは、新しい料理を知りたいという欲からそう言っているようだ。
「褒めていただけてうれしいですわ。そうですね、昨日は脂質も多かったし、皆様食べ過ぎで胃が重くないかしら。今日はあっさりとしたものとかはいかが?」
あっさりと言っても肉を出す事は決定しているようなので、限度はあるけれど。
魚や貝が手に入ればまた違うのだろうけど、生憎山では肉に頼るしかない。
流通している魚と言えば、海沿いでない限り一般的には干し鱈である。
脂質が少ない鱈は傷みにくく保存性に優れていて航海や旅の保存食として活躍しているけれど、肉が手に入る場所でわざわざ金を出してまで干し魚を使ったりはしない。
川魚もいるだろうが、鉱山の呪いを考えれば忌避される生き物だろう。
獲れたとしても、ここでは釣りを楽しむ人もいないのだ。
人数分を揃える前に、口に運んでもらうのは難題といえるだろう。
廃坑になってからは長いし、鉱毒の心配はないようにも思うけれどきちんと調査した訳ではないから、おいそれと食べる訳にはいかない。
鉱毒を呪いと考えて遠ざけるのは、迷信めいた不条理にみえて実は理にかなっている。
世の中というのは、よくしたものである。




