522話 心のうちです
「ほらほら、そちらの実はまだ早いからこちらになさい」
老婦人は優雅な仕草で少女の手の中にある実を取り上げると、キラキラと赤く熟した木の実と交換した。
それだけでは物足りないと考えたのか、食べ頃な実を手を伸ばして幾つか採ると、そのまま少女の口へと押し込んでいる。
「ふぐぅ」
少女は突然口の中に入ってきた木の実に目を白黒させながら驚いている。
「甘い? それとも甘酸っぱいかしら? ここにあるのは全部あなたが食べていいのよ」
もごもごと実を咀嚼すると、爆ぜるように汁が口の中に広がった。
甘くてそして少し鼻に皺を寄せてしまいたくような鋭い味が舌に走る。
これが甘酸っぱいという味なのだと少女は覚えた。
老婦人は朝、目が覚めるといなくなっている。
夜も暗くなる前にどこかに消えるけれど、そのどちらもぼんやりと寝台の上で待っていれば帰ってくるのを少女はわかっていた。
毎回、食べ物を持っているので人恋しさと空腹が合わさって、帰ってくると嬉しさが体から溢れるような気がした。
小さな少女の人生の大半は夢現の中で過ごしていたし、そうでなければヒステリックに叫ぶ自分と同じ名の少女の怒りの発散先であった。
訳も分からないまま怒鳴られ殴られ、謝罪させられる事もあった。
時には、暖炉の火掻き棒で殴られそうになった事もあったけれど、そういう時には必ず色の黒い男が止めに入ってくれていた。
止めてくれるのはありがたいことであったが、その男はいつもにやにやと笑っていたので少女には助けてくれる誰かというよりも怖い存在であった。
「もっと栄養をつけないとね」
老婦人はそういいながら、木立を歩いて食べられそうなものを探す。
少食な少女にとって彼女が運んでくれる食べ物で正直お腹がいっぱいなのだけれど、最近ではまるで少女を太らす事が最上の使命であるかのように老婦人の庇護欲に拍車をかけていた。
1度に食べる量が少ないのならば、食事の回数を増やそうとでも考えているのかもしれない。
散歩のついでに木の実を見つけては、おやつの代わりにしたりしている。
「しゃうー、もお、やない」
そう断っても、食べろ食べろとすすめてくる。
そう熱心に進められると、なんだか悪いような気がしてほんの少しだけ食べてみせる。
「まあ! 偉いわね!」
それを見て老婦人は手を叩いて喜んでくれる。
こんな事で喜ばれるなんて、なんて不思議なのだろうと少女はぽかんとしたあと破顔した。
暮らしているのは狭い小屋。
ガラスの窓もなく陽も入らないけれど、壁の隙間から光が差し込むし焚火の灯りもある。
手入れのされていない小屋の周りには、草や木が好き勝手に生えているので鳥や虫の鳴き声も沢山聞こえてくる。
「賑やかね」
老婦人の言葉を聞いて、これは賑やかという事だと覚える。
賑やかなのは、寂しくはないということ。
前の暮らしを思うと質素な生活ではあるけれど、少しも寂しくはなかった。
すぐそばにいろいろな生き物がいてその営みが息づいていることに、安らぎを覚えていた。
ずっと過ごしていたあの部屋は、いつも静かで人の出入りは極少数だったから。
老婦人がいない時は外に出てはいけないと言い含められていて、少女はその通りにしていた。
幼い時からずっと寝台から出るなと命令されていたので、小屋の中でじっとしているのは苦でもなかった。
小屋の中には自分以外にももうひとりいて、その相手が遊んでくれるので暇を感じる事がなかったのもある。
もうひとりのその人は、犬の顔をして背中が曲がった人でたいそう少女に優しかった。
少女は世間を知らなかったけれど、寝台の上で本を読むのは許されていたので絵付きの図鑑を見て犬というものを知っていたのだ。
鼻先が長くわんわんと鳴いて獲物を追う。
古くから人と共に歩む賢く愛情深い生き物。
そんな言葉で表現された生き物に、憧れを持っていた。
少女はその人を見た時、確かに犬だと思ったし、そして自分に寄り添ってくれる生き物とようやく会えたのだと感じた。
彼とはお互い意地を張って拙い言葉で言い合いをする事があっても、本で読んだ友達というもののようで、それすらも少女にとっては楽しい事であった。
その人は日中眠る事が多かったけれど、老婦人がいない間は、仮眠の多い少女が目を覚ますと必ず一緒に起きてくれていた。
気配を察知するのに優れているのだろう。
決して少女を寂しがらせる事はなかった。
2人で木彫りの犬を眺めたり、時には外で見つけた綺麗な石や昆虫の羽を運んでくれたりもした。
小枝で小屋の土間に絵を描く事も多かった。
少女は心を壊していて絵を描くと言っても線や丸などでまるで要領を得ないものであったけれど、それでも笑い合って楽しいものであった。
そうして、ここにはあの怖い人達はいないのだとわかると、しっかりと呼吸が出来るようになった。
ある日悪戯心が湧いて、老婦人の後をつけてみた。
小屋の外には何度も散歩や湯あみに出ていたので、この環境に慣れてきたからこそ沸いた自立心ともいえよう。
後をつけた先の建物を覗くと、老婦人が何かを手に取り動いている。
鍋や火がついた釜戸、ここは料理を作る場所だ。
少女はまだ自分がひとりの令嬢だった時、その頃に覗いた屋敷の調理室を思い出していた。
ここはそれに比べたら広くて薄汚れていたけれど確かに料理をする場所なのだ。
こっそり覗いていたはずが、老婦人と目が合った。
老婦人は驚きはしたものの、少女を快く迎えてくれて料理人を紹介してくれる。
あのね、一緒にいたかったの
それは言葉にはならなかったけれど、伝える事は出来なかったけれど、確かに少女の心のうちに生まれた小さな望みだった。




