520話 妄想です
「小さい時は引っ込み思案」
ディック・ラインの声が、何度も頭の中でこだました。
賢者アニカ・シュヴァルツは、前世の記憶を持っている。
私よりもずっと多くの。
男爵家の為に現世の知識を振るい、私がロンメル商会を使ったように王国の西で幅を利かせるハインミュラー商会を後ろ楯に商品を展開してきている。
私は前の生については日常の生活や文化、身に染み付いた価値観などは覚えているけれど早くに亡くした母への思慕以外は家族や交友関係についてはぼんやりとしか思い出せない。
だからこそ里心がつくこともなく、多少戸惑いがあるもののこちらに馴染めているのだ。
だけれどアニカはそうではない。
まるで現代人をそのままこちらに持ってきたというような、強烈な違和感を伴っている。
私よりも表舞台で活動を始めていたのは早いし、より明確に前世の記憶を持っていそうな感じなのだ。
私と同じで赤子の頃から意識があったのは間違いないだろう。
幼子の体で思うようには出来なくとも、その思考は前世を引き継いでいたはずだ。
あの強烈な性格が、変わるなんてことがあるのかしら?
なにか、他にも気にかかった事がある。
私は、気付いてはいけない事に気付いてしまった。
それとも、もっと早くに気付かなければいけなかったのかもしれない。
馬鹿げている、そう自分で言い聞かせてみても、それを打ち消すことが出来なかった。
「しゃうー」
私を呼ぶ舌ったらずで甘い声。
あの小屋で待っている少女が思い浮かぶ。
そう、アニカよりも、よっぽどアニーはシュヴァルツ男爵夫妻に似ているのだ。
派手さはないけれど、野花のような可愛らしさをもつ少女。
アニカのような万人に賞賛される美少女ではないが、無邪気で一緒にいてホッとする少女。
あの洞窟で、自分はアニカ・シュヴァルツだと拙い言葉で必死に主張していたのを思い出す。
ああ、なんて事だろう。
何故、そんな事になっているのだろう。
賢者であるアニカ・シュヴァルツは、本物のシュヴァルツ男爵令嬢の居場所を奪って生きているのではないのか。
魔術儀礼の時に、シュヴァルツ男爵夫妻の娘への溺愛ぶりを目にした。
あれはもしかしたら、本来ならばアニーが受け取るものではなかったのか。
愛の為に王位を放棄した前王兄は、相手に逃げられてからも貴族社会に戻らなかった。
それは何故?
裏切られて全てがどうでもよくなったから?
戻らない理由があったのではないか。
例えば逃げた女との間に、子供が出来ていたとか。
我が子に貴族社会で肩身の狭い思いをさせる事を否と思っていたならば、無冠のまま市井に身を置いたのではないだろうか。
何せ王位継承権を捨てる程の情の深い方だもの。
天下ったとはいえ、幾ばくか王室の資産から年棒を与えられ表舞台から離れた田舎で隠遁生活をしていると考えるのが妥当だ。
それすらも拒否する程、お花畑な思考ではないだろう。
かといって贅沢すると目立ってしまうし、もしそれで有力者に目を付けられてしまえば利用される事は間違いない。
王位を返上して身を落とした王族など、いつまでもくすぶっている火種と変わらないもの。
これまで身を隠しているのならば、やはり庶民の生活に身をやつしているのではないか?
よくても放逐された金持ち息子くらいの生活で、余裕はあるけれど贅沢まではというくらいの悪目立ちしない程度の生活水準か。
そこに生まれた少女が、出生の秘密を知ったらどうするだろう。
牧歌的な人間ならばともかく、少しの野心があるのならば貴族に、出来れば王族に返り咲きたいと願うのではないだろうか?
王都に来て王族と直談判する?
門前払いもいいところだし、それを周りが許すはずがない。
前王兄が復権を求めない以上、その子孫には王位継承権はないのだ。
現在の立場で彼女が王宮に足を踏み入れる事は出来ない。
だけれど、現王室に何かがあった場合には神輿として担ぎ出される可能性はあるだろう。
血統至上主義の輩にとっては出来の悪い王家のスペアであるが、王室の存続を考えればその存在は秘匿していてこそ価値があるのだもの。
王族の尊い血を管理する為に、ある程度監視をつけて自由にさせているかもしれないが、王宮に乗り込むのは阻止するのは明らかだ。
庶民の生活に辟易した身上を知ったアニカが、貴族になりたくて何かの手段でシュヴァルツ男爵家へ潜り込んで娘とすり替わった?
アニカ・シュヴァルツの貴族としての知識の無さや振る舞いや喋り方などは前世の影響もあるだろうけれど、庶民として育てられたからならば納得がいく。
そうして男爵家の愛娘の地位に治まっているのではないだろうか。
立場を追われたアニーは、すり替わるまでは令嬢としての教育を受けていたけれど、成り代わられて追いやられた結果、精神を病んでしまったのではないだろうか?
「ふふっ」
思わず笑ってしまう。
なんて妄想をしているのだ。
どう考えても無理な話だ。
自分の子がすり替わっていて気付かない親はいない。
ましてや男爵夫妻は、娘を可愛がっているのだもの。
いくら賢者と称される程の魔力を持ってしても、そんなことが出来る魔法がある訳がない。
それともそんな事が出来てしまうというの?




