515話 誘引です
夫人はオイゲンゾルガーの領地に滞在中のアニカに出来うる限り時間を割き、心を砕いてもてなしてくれた。
礼儀作法に寛容で気を遣わなくていい夫人は、彼女の付き添い人にぴったりだった。
馬鹿馬鹿しい貴族の習慣として未婚の令嬢は付き添い人を伴わなければ、外出も許されない。
勿論、親や王宮からの派遣で実際に連れていた時もあるが、どの婦人も口喧しく行動に口出ししてくるので何人も解雇してうんざりしていたところだった。
そんな風習を受け入れる気はなかったが、賢者の称号を授けられ人の目に止まるようになった今、不評を買うのもつまらない。
面倒でもアニカ・シュヴァルツにとってその地位が不動となるまでは、いい子でいないといけなかった。
そんな他愛もない理由で、アニカは夫人を付き添い人に抜擢したのだ。
長年連れ添った夫よりアニカを優先する姿を見てほくそ笑む。
そうしてこの何でも言う事を聞く女性が、どこまで言う事を聞くのか知りたくなった。
華やかな王都の貴族を見せつけ夜会を連れまわし、派手な衣装を、人の目を引く化粧を、煌びやかな人々の怠惰な日常を夫人に教え込んでいく。
貴族の大半は品行方正であり夜会もまともであったが、そうでない者も一定数存在した。
そういう者達が自分達の為に開く会は、所謂低俗な催しであったが、アニカが参加するのはもっぱらそういう会である。
それを判断するには、夫人は経験が不足しすぎていた。
王都の貴族はこのように奔放で自由なのだと色眼鏡で見てしまえば、それが基準になってしまうのだ。
野暮ったい素朴な田舎の貴族夫人が、戸惑いながらも世俗に塗れていくのを、アニカは最前席に座って楽しんでいた。
実際、王都に来てからの婦人は花開くように華やかさを身に付け、彼女自身垢抜けていく自分自身に驚き、またそんな機会を与えてくれたアニカへの感謝を更に募らせることになる。
それは少女にとってはただの遊び、いや、暇つぶしであったといっていいというのに。
夫人の独白のそこかしこからアニカの悪意が漏れているのに、当の本人はそれに気付くことなくはしゃぎながら楽しい思い出のように語るのを聞いて、シャルロッテには哀れでならなかった。
素直も過ぎれば害になるものである。
この存在も曖昧な何かになってしまった今でも、アニカは夫人にとって無垢で可愛らしい少女なのであった。
最初は軽いお酒から。
付き添い人として飲酒を控える夫人に、少女は無邪気にすすめる。
「大丈夫よ。ジュースと同じよ。私は子供で飲めないから、奥様が飲んで味を教えて。夜会でお酒を飲まないなんて、普通なら考えられないことよ」
領地の恩人に、そう言われては逆らえない。
子供にそんな指摘をされた事に、恥を覚え杯を空ける。
飲み慣れない酒のグラスを何回か空けるうちに、緊張もほどけそれが普通の事になる。
足元も覚束なくなっても咎める者もいないので、いろいろと気にならなくなっていた。
アルコールがもたらす高揚感と多幸感は、夫人の田舎者である劣等感を拭い去り、それは口数にも影響した。
慎ましく閉じられていた口は、意気揚々と開かれて周りとの会話の回数も増えていく。
酒の力とはいえ会話を楽しめる事は、夫人にとっては自信につながっていくことになる。
そんな夜が何度も続き、最初のうちの自制心も、繰り返すほどに緩んでくる。
少し考えれば、幼い身で夜会や酒の場に顔を出す事など普通ではあり得ない事であるのに、王都という新しい環境と刺激が、少女の賢者という特別な称号が、夫人の思考を鈍化させていた。
夜会にもなれた頃、それはいつになく廃退的な雰囲気の会であった。
明るさを抑えた照明に、燻る紫煙に香りの強い花。
甘ったるい香まで炊かれ、そこかしこに置かれた大きなソファには衝立と大きな幕が垂れ掛けていて客人達の挙動を分かりずらくしていた。
まるで密談用の夜会のような。
「そろそろ、新しい遊びも覚えなきゃね」
悪戯顔のアニカに呼ばれた顔の良い従者が、にこりと笑いかけてくる。
夜会で異性と話すのも苦ではなくなったといえど男慣れしていない夫人は頬を染めて目を逸らした。
初々しい乙女のようだと甘い言葉を掛けながら男は酔った婦人の腰に手を回す。
外聞が悪いとそれでも体を離しては見るものの、追いすがるように青年は迫ってくる。
そんな不器用な追いかけっこのような彼女を見て、アニカは目を細くした。
「大丈夫。こんな事どうってことないわよ。王都の奥様達は皆やってるわ。私は子供で楽しめないから奥様がやって感想を教えて。誘われてこたえないなんて普通じゃ考えられないわよ」
可憐な少女の唇から、思考を奪うような言葉が投げかけられる。
それは夫を裏切る事への免罪符のような甘やかな匂いを伴い夫人の耳へと染み入った。
酔いが回った頭に王都ではこれが普通と言われると、そうかもしれないと思えてくる。
ぼんやりしたまま体を預ける夫人は、まるで無抵抗ないたいけな生贄のようにも見えた。
それを眺めながら無邪気に、下品にアニカは笑った。




