500話 聖典です
その書には、綴られていた。
「人」の屍を食し、愛し、犯し、熱望し、破壊し、賛美し、その屍体に残された魂までもを冒涜して自身とひとつにする行為を讃えられ崇高であると記されていた。
それは甘く麗しく得もいわれぬ味がして、我々を高みへと導くのだと書いてある。
添えられた絵、散りばめられた紋章、綴られた文章。
その目に入るすべてが、人を食すことを教化し肯定し啓蒙し嚮導していた。
それは魔術的なものなのか、呪わしい何かなのか。
視覚を経由しその脳まで、その心まで、その魂にまで浸蝕していく。
身も心もその内側までも、それを刻み込まれ、形を変えられてしまうのだ。
一口噛めば、天の甘露
何故、誰も隣人を口にしないのか。
何故、隣人を食んではいけないのか。
思いもしない衝動。
願いもしない衝迫。
身の内で暴れる欲望。
読むだけで人を食べてしまいたくなる
その本の題名は「屍喰教経典」と書かれていた。
ああ、これだ
父が変わってしまったのはこのせいだ
ああ、そうだ
これこそが求めていたもの
自分も変わってしまうのだ
幼い心が震えていた
悲嘆に暮れながら狂喜する。
少年は、自分の身に起こっている何かを恐れながら歓迎した。
口の中がもごもごとして落ち着かなかった。
異物に気付いてぺっと床に吐き出してみるとそれは白い小さな歯であった。
まだまだ乳歯は残っていたが、抜けそうな歯はなかったというのに。
そっと指先で口内を触ると、そこには鋭く尖る歯が生えていて指先を傷付けた。
舌で歯の裏側をなぞると、ギザギザで何だか知らない生き物を触っているような気分になった。
皮膚は火に炙られたように引きつる感覚があり、それでいて弾力のある厚みがあった。
手入れされていた髪は、少し触れただけでばさりと音をたてて束で抜け落ちる。
爪の下から新しいものが生えて来ていて、白い元からあった爪は用を済ませたとでもいうように隙間が出来て、大きな靴を履いた時のようにぱかぱかとした。
それが妙に可笑しくて、少年は何度もグラグラと外れそうな爪をつついては遊んだ。
夜に家の中を彷徨う者が何者なのかを理解した。
あれは獲物を探していたのだ。
食べても良い肉を探し、それでも逡巡し、うろつきまわっていた父親。
部屋に閉じこもるのも無理はない。
こんな姿を見せたものなら家人は一目散に逃げてしまう。
最初に柔らかい子供の肉を選ぶか、しなやかな女性の肉を選ぶかきっと迷いに迷ったのだろう。
そうして逃げられてしまったのだ。
母親は目を爛々と輝かせて涎を垂らし自分の体を見る父親に、恐怖して去っていったに違いない。
のこされたぼくは 父にとっての ごちそうのにく
聖典により魂を歪み変えられた人間は次第に暗闇を好み、食人の衝動を抑える為に暴れ惑い、食欲を紛らわす為に鼠や鳥を食いちぎる。
しかし待っているのは、何を以てしても潤う事のない飢え。
少年は何もかも理解出来ていた。
自分の身に起きている事なのだから。
この苦しみに息を荒くし、神を罵り、髪をむしり、自分の腕に噛みつく。
その行為はほんの少しだけ欲を満たしてくれるものの、それは真に欲しいものではないことに気付かされる。
そうして、また迫る飢えに追われる。
自分ではない他者の、自分以外の肉を咀嚼し食みたいのだと体中が叫び出す。
父親は地母神への狂信と自身の尊厳を糧に、長い間その欲求に耐えていた。
それは大したものであった。
彼の信念は歪み正しくはなかったかもしれないけれど、彼自身を支え続けた事には間違いはなかった。
到底、他の者には持ち得ぬ確固たる意志の力を持っていた。
そうして耐えて耐えて耐えて、耐え抜いた果て、首を括って楽になったのだ。
書斎で父の縊死してぶらんぶらんと揺れる躰をみつけて、その子供は絶望した。
そこにあったのは、首を括って死んだ父親。
だらりと口元から垂れた舌は、まるで木苺のケーキように赤く瑞々しく食欲をそそったことに。
全身が弛緩してその下半身からしたたる汚物は、熟した葡萄を絞ったような芳醇な香りを立ち上らせていたことに。
ついぞ自分を抱き上げた事の無かった腕は、噛み応えがありそうな張りをして早く歯を立ててと誘っている。
少年は絶望した。
あまやかで、濃厚で、絶品であるはずの食べ物が「さあ、どうぞ」と、そこでゆらゆらと揺れていたのだから。
ここにあるのは ぼくにとっての ごちそうのにく
あれは食べ物ではなく父親である。
あれは父親であり食べ物である。
あれは食べ物ではなく人間である。
あれは人間であり食べ物である。
ぐるぐると思考が周り、気が狂わんばかりの衝動が胸をついた。
そんな欲望に小さな生き物が耐えられない事を誰が責めようものか。
かみさまが 用意してくれた たべもの
父親が神の名の元に自分の信念を振りかざしたように、少年もまた神の存在を利用した。
そうして気付けば、少年は小さな口をいっぱいに開いてその脛にかじりついていた。
それは喉を潤し腹を満たしてくれた。
子供は思うまま腹に父親をおさめると、満足して体を丸くして床の上で眠りについた。
腹の中に父親を詰め込んで、自分はひとりではないのだと安心しながら。
ああ おなかが あったかいよ




