495話 泣き女です
アニーを連れて娼館へ赴くと、待っていたのは右目と口元を腫らして痣をつけた痛々しいカトリンであった。
ああ、食堂で言葉を濁された訳がわかった。
これは貴族の気の弱いお婆さんなら、見た途端気を失っていてもおかしくないもの。
ベッドで休んでいればいいのに、こうして待っていてくれたのね。
もしかしたら彼女にとっては、こんな事は日常茶飯事で、周りから見て痛々しいと理解していないのかもしれない。
「カトリン、大丈夫なの?」
私は早足で駆け寄ると、彼女の顔を両手で挟んでまじまじと見た。
せっかくの美貌が台無しだ。
可哀想に、腫れて痣になるなんて、どれだけ強く殴られたことだろう。
よく見ると、首にも鬱血した指の跡がある。
「あ……、これね。首絞めてやるのが好きな人がいるの」
私の視線に気付いて微笑んで説明する彼女を、私は思い切り抱きしめた。
彼女をこの仕事から解放する事も、無体をする男達を断罪する力もない私には、そうする事しか出来ない。
なんて不甲斐ないことだろう。
「ロッテ婆、大丈夫よ。こんなのよくある事なんだから」
彼女達の世界でよくある事だとしても、痛いし辛いのは同じだ。
彼女は、痛みを感じない人形ではないのだもの。
「さぞかし痛かったでしょう」
そんな言葉しか出てこない。
だけどそれでも私の心配は伝わったようで、カトリンは私にしがみついて静かに泣き出した。
それだって声を上げて泣くなと子供の時から娼館で教育されたのだろう。
泣いてはいても、決して声を上げたりしない。
「いい子ね、カトリン」
私は彼女の頭を何度も何度も撫でる。
そんな私達を、アニーは横でぽかんとして見ている。
「たいたい?」
少女がカトリンの頭を真似して撫でた。
「今はそんなに痛くないわ。ロッテ婆が優しくしてくれるから」
その返事を聞くと、アニーは大声で泣き出した。
「あといん! たいたい! たいたい!」
そう叫ぶと、まるでカトリンの代わりだとでも言うように泣き喚いた。
そう、それは押し殺したカトリンの心の叫びを体現したかのように。
アニーはその幼さからなのか、生まれついてなのか、共感する力が強いようだ。
少女の泣き声に、何事かと娼婦達が集まってくる。
そして状況を察すると、皆で代わる代わるアニーを抱きしめて慰めてくれた。
何のしがらみもなく仲間の為に泣く少女に、彼女達は思うところがあったのだろう。
皆、いい人達である。
「ありがとう」
アニーの泣き声を目を閉じて聞きながら、カトリンが私の腕の中で小さく呟いた。
アニーのお陰というと何だが、彼女がめいっぱい泣いてくれたので、この場を支配していたどこかに感じていた悲愴感は鳴りを潜めて、気持ちも軽くなっていた。
それは他の女性達も同様だったようで、カトリン自身もさっぱりした表情になっている。
葬式で泣いてみせる泣き女という職業がある事を、アニーを見ながら思い出していた。
死人が出ると家人が泣き女を手配して、葬式で盛大に泣いてもらうという仕事だ。
泣き女の数で家の格式を周りに知らしめたり、泣き女の数が多い程、名誉であるという国もある。
最初は単純に葬式で泣く人が少ないのは寂しいのではないかという、残された遺族の心情に沿ったものだったろうに、それが職業になってしまうのは人の業は深いと言わざるを得ない。
他に英国の妖精バンシーも泣き女であり、死人が出るのを予見し泣き叫ぶ幽霊のようなものもいる。
やはりバンシーが現れるのは誉れであり、人々はそれを歓迎したのだという。
廃れゆく習慣であれ伝承の生き物であれ、どちらにせよ人は身内を亡くす悲しみを体現して泣く人を必要としたのは確かなのだ。
死者は涙を好物にしているからとか、涙は死者への供養であると言われているけれど、悲しみという感情を涙に変えて洗い流すと考えると、この場がアニーの涙で洗われたのは事実であった。
「お見舞いがあるのよ」
そう言って、林檎の薔薇仕立てのパイを詰めた籠をカトリンに渡す。
掛けていた埃避けの布を外して、そこに並んだパイを見ると嬉しげな悲鳴が上がった。
「きゃあ! すごいきれい! これ食べてもいいの?」
「ええ、皆さんでどうぞ」
思った以上に喜んでくれたようで何よりだ。
女の子は綺麗なものや可愛いものに目がないものね。
「えー! 独り占めしちゃいたい!」
はしゃぎながらカトリンは、ぎゅっと私を抱きしめる。
「後、これはラベンダーの湿布よ。痛いところに貼ってね。薬草束も持ってきたから、寝る時に枕元におくのよ」
ラベンダーは打撲に効果を発揮するので、夕食時に煮出してタオルに含ませたものを湿布として用意しておいたのだ。
生活に必要なタオルなどを多めに持たせてくれた黒い雄牛様に感謝ね。
薬草束もその香りで気持ちを落ち着かせて、深く精神が休むのを手伝ってくれるものなので、病人や怪我人の部屋には欠かせないものなのだ。




