492話 騒めきです
「来てその日に死んだってことか?」
「呪いだ! 鉱山妖精に食べられちまったんだ!」
「おい! どうやって死んだんだ?!」
「なんてとこに来ちまったんだよ。帰りてえ……」
報せを聞いた途端屈強な男達は、思い思いにその図体に似合わない弱気を吐露しだした。
先程、私に鉱夫の行方を聞いてきた男も顔が真っ青だ。
「どうやらお宝目当てに廃坑に入って事故にあったようだ。見ての通りここは大分昔に、1度閉じた鉱山だ。再開したと言っても色々万全じゃない。廃坑は潰してないし山ほどあるからな。お前達に割り振られた場所以外行ったりするなよ」
グンターが彼らに、念を押すように強く言った。
「おい、あいつは、あいつの遺体はどうなったんだ。会わせてくれよ。別れくらい言わせてくれ」
一緒にここへ来た仲間と思われる数人が立ち上がる。
荒くれ者と言っても、身内にはまともな情を持っているらしい。
冷たいようだが、この中の誰かがカトリンへ暴力を振るったと思うと、死んだのは気の毒だが同情出来なかった。
「見せられる状態じゃないんで、こっちで処分しておく」
グンターは鬱陶しそうに、しっしっと動物でも追い払うかのように手を2回振ってみせた。
「処分だと?!」
激高して殴りかかろうとする男を、他の鉱夫が止める。
我らが鉱山支配人は、人を怒らす事が趣味なのかと思う程、言葉選びと態度が悪い。
「契約書にあっただろ。鉱山で死んだら死体はこっちで埋葬するって。高い金で契約してるんだからちゃんと把握しておけよ。明日も仕事があるんだ、お前ら酒もほどほどにな」
そういうと、呆気にとられた食堂の人々を置いて帰って行った。
鉱夫が姿を消した理由が判明したせいか、グンターには先程までの気に病んでいた感じがなくなっていた。
「そんなん読んだ奴いるかよ……」
そもそも文字が読めないと、鉱夫は弱気になって言葉を続けた。
やはり識字率は低いのよね。
クルツ伯爵領で進めている、文官学校の話を思い出す。
文官を増やすのも大事な事であるが、まず文字が読めなければどうしようもないのだ。
教会では教えを読む為、文字を教える素地もあるけれどなかなか浸透していない。
普及には教会に頼るのが1番だろうけど、子供を労働力として考えているのが一般的である。
しかし、自分が文字を読めなくてやっていけているなら、なおのこと必要としないだろう。
子供の学習機会を奪っているのが、その親だなんて皮肉な事である。
「皆さん契約書がある事も知らなかったのでは? ここは本当にお葬式まで面倒みてくれるの?」
私の問いに、スヴェンがふるふると首を振った。
「文字通り処分ですよ。墓なんてありません」
雇い主からみたら、契約半ばで命を落とした鉱夫の死体を家まで届ける手間は掛けられないということだそうだ。
今回は契約半ばどころか、1日も労働していない事になる。
なおのこと手厚く葬られるのは難しいのかもしれない。
鉱夫は借宿暮らしも多く、遺体をわざわざ届けても引き取り手が無い場合が大半で、そのまま遺体を腐らすなら最初から鉱山で始末をつけるのが手っ取り早いのだとスヴェンは説明してくれた。
元々、鉱山には崩落事故も多く生き埋めになってそのままの者もいるという。
それだけいうと、彼はグンターの後を追って小走りで出て行った。
追いついたら追いついたで、きっと小言を言われるのだわ。
引き留めてしまって悪かったかも。
しかし腰巾着というには弱々しいし、そんなにグンターに付いてる必要があるのかしら。
食器を下げたり、パイを配ったり小忙しくしていたけれど、人が死んだ話になんだか気が滅入っていた。
ここで死んだら葬式も墓も無く、つまりはその辺の穴に埋められるということなのだろう。
この世界の命に対する倫理観の違いだけは、頭ではわかっていても慣れそうになかった。
人の命が軽い。
殺人は重罪であるが、その刑も身分や情状酌量が大きく幅を効かせている。
貴族所有の馬車が人をひき殺しても、せいぜいが罰金刑で終わるが、庶民が貴族に刃物を向ければそれは重い刑を科せられる。
暴漢を返り討ちにすれば、過剰防衛等は一切考慮なしで英雄的行為だと持て囃される。
万一、逃亡中の殺人者を殺しても、それは害虫駆除のようなもので報奨金が出ることもあるのだ。
確かに犯罪者は悪い。
けれどもそれぞれの事情を鑑みて、もっと情状酌量の余地もあっていいのではないだろうか。
無慈悲にも捕縛した犯罪者をその場ですぐさま殺せと奉公人に命令した権力のある主人は、その決断力を褒めたたえられる事はあっても罪に問われる事はない。
反対に、栄誉を得る事もある。
いくら罪人とはいえ、そこまで彼らの人権を無視するのはどうなのだろう。
冤罪だって横行していそうだ。
罪を犯したのは悪い。
だが、それを人が命を奪うという行為で断罪するのは果たして正しいことなのか私には判断がつかなかった。
きちんとした法の元、罪と罰を照らし合わせるのが「本当」なのではないのか?
そんな疑問が付きまとう。
私のこの意識は法治国家で生まれ育った記憶のせいで、それぞれの「本当」があるのもわかるのだけれど、なかなかそれを飲み下す事が出来ない。
前世を覚えている弊害のひとつね。
価値観を擦り合わせるのは、なかなかに難しい事であった。




