5話 本の虫です
何とか乳幼児を経て、ようやく自分の体を上手く使える様になりました。
8歳です。
朝、マーサが起きるのを手伝ってくれて、洗面器に用意されたお湯で顔を洗います。
その後、着替えをして朝食の間に足を運ぶ。
朝食だけのための部屋があるとは贅沢である。
もちろん移動時に走っては駄目だ。
いつも優雅を心掛けてとマーサには言われている。
静々と階段を下りて辿りつくと、そこは朝日がふんだんに差し込むよう大きな窓が設えてあり、中央のテーブルには両親と兄が既に席に着いて笑顔で私を迎えてくれるのだ。
父は領地管理のみならず、王宮での仕事もあるのであまり一緒にはいられないが、領地の我が家にいる時は必ず食事を一緒にとってくれている。
「おはようございます。父様母様兄様」
各人の顔を見ながら、にっこりと挨拶をする。
そうして、朝ごはんの始まりだ。
テーブルの上には料理と庭で育てられた果物と花が美しく飾られ、季節を知らせてくれる。
寒くなると温室のものに変えられるが、いつでも新鮮な果物を口にし、花を愛でることが出来るのは嬉しい事だ。
食卓に並ぶ料理はスープにサラダとパンにハム、卵等、前世で親しんだものが多く特におかしなもの出てこない。
黒い雄牛の言葉を思い出す。
並行世界を独立させてと言っていたから、元の資源は同じなのだろう。
箱庭として独立してから地球をベースに各々の神様が好きにアレンジしたということなのだと思う。
とにかく馴染みのある物に囲まれるのは安心できるものである。
この生活も8年になり召使いにかしずかれるのも慣れたものだ。
でも、だらしない格好で頬張るおにぎりと甘い卵焼きが恋しいのも確かだ。
私の父アウグスト・エーベルハルトは若き侯爵である。
若いと言ってもこの国の貴族は20歳には結婚するのはざらだし、1男1女を持つ彼は父親としては年相応であろう。
彼を称する若いという言葉は、侯爵としては若いという事だ。
父は祖父の歳をとってからの子で、誕生をとても喜ばれたらしい。
だが、よる年波には勝てなかったようで、父の結婚を見届けると安心したのか間もなく亡くなったそうだ。
祖父亡き後、自由を謳歌しだした祖母は、気候の良い南部のリゾートに住まいを移しのんびりと暮らしている。
もともと火山を抱え、隣国との国境を守る武骨なこの土地には愛着がなかったらしく、別邸を構えてからは、こちらにはとんと足を運ばなくなったそうだ。
彼女をここに縛っていたのは祖父への愛だけであったのだろう。
私達と祖母が会うのは、もっぱら王都にある侯爵家のタウンハウスである。
武功はあれど国を守るには30そこそこの父では長年、国を支える重鎮から見ればひよっこに違いない。
若いと評されるのは仕方ないことだろう。
母ヒルデガルドは朗らかで優しい人だ。
子供が小さい事もあり、社交シーズン以外はこの領地のカントリーハウスで私達と過ごしてくれている。
貴族としての付き合いがあるので、それでも月に何度か王都へ足を運んでいるが何日もこちらの家をあけることはない。
子供の世話をすると言っても、乳母や召使いがいるので何時間か一緒に過ごして母なりの領地や貴族についてや淑女の在り方を聞いたりする感じで、日本という世界を知っている身からいうと不思議な親子関係だ。
だけれどあの世界でも幼稚園や小学校で子供が過ごしている間は別に過ごしているし、帰宅後もつきっきりということもないので、親子の時間としては総合的に見てそう変わらないのかもしれない。
兄のルドルフは、子供ながらも最近は凛々しい顔つきになってきた。
騎士を目指したこともあり剣術や馬術に励んでいるそうだ。
もっぱら家庭教師について12歳で入る事になる王都の学院への準備と、子供を対象としたお茶会での社交と忙しそうである。
時間が出来ると私と遊んでくれたり、一緒にダンスの練習をしてくれるいい兄である。
驚くことにこの世界の貴族の子息令嬢は屋敷内、ひどくなるとプライベートスペースにある子供部屋で、そのすべての時間を過ごすようだ。
遊び相手に使用人の子供が雇われたり、同じく貴族の子供と顔合わせをすることはあるが毎日ではない。
大半は大人に囲まれて暮らしていることになる。
昔は社交界へデビューするまでその状態ということだったのだが、何代か前の国王があまりの閉鎖性に危惧を感じて12歳から4年間ほどは子供だけの学び舎で自立をするようにと王都学院が開校されたのだ。
私はまだ小さいので貴族の付き合いの頭数には入れられていない。
何故か兄と違い茶会に出ることもなく、文字通り箱入り娘となっている。
基礎の勉強や礼儀作法にダンス、刺繍や令嬢の嗜みも母や教師陣が指導してくれるので、周りは大人だらけである。
とはいえ緩やかなスケジュールでこなしているので、自由になる時間は結構多いので息苦しさはない。
「今日のシャルロッテは何をするのかな?」
赤子の私に手を焼いた父も、今では立派なベテランパパである。
ニコニコと微笑みかけながら聞いてきた。
「ダンスのレッスンまでは空いているので、ハンス爺と図書室に行こうと思ってます」
ハンス爺というのは引退した家令で、屋敷の庭の一角にある使用人住居で隠居生活を送っている老人だ。
父は便利な王都の屋敷で過ごすよう勧めたのだが、都会の喧騒より娯楽はなくとも長年仕えたエーベルハルト領で過ごしたいと、本人のたっての希望でこちらに留まっている。
引退したとはいえ元家令、この家を取り仕切っていた人間なので、使用人達はみなハンス爺に頭が上がらない。
引退してからも、いつも目を光らせて使用人をチェックし続けて、煙たがられる一幕もあったらしい。
だが、私達兄妹が産まれてからはその成長を見守る事に注力する事を決めたらしく、使用人へのお小言はめっきり減ったようである。
「あまり本を読み過ぎて目を痛めないようにね。せっかくの可愛らしいお前の瞳が眼鏡に隠されてしまったら悲しいよ」
その甘い言葉は何なの?と言いたいところだが、残念ながらこれは私に釘を刺しているのだ。
読書自体は奨励される趣味なのだが、私の本好きが度を越している為、遠回しに注意をされている。
前の生でも私は本が好きだった。
歳をとるにつれ、生活に追われすっかり読書から遠ざかっていたのだが、こちらの文字を覚えて本を与えられた時に、唐突に私の中の活字への渇望が頭をもたげたのだ。
その情熱のまま屋敷の図書室の場所を聞くなり私は走り出し、寝食を忘れ読書する暴挙に出てしまった。
普段はおっとりのんびりしている少女が、突然そんな行動にでて周りはそれは驚いたことだろう。
読み出したら聞く耳を持たないと前世で言われた事があるが、現在でもそうであった。
その日は幼児にあるまじき集中力を見せ、体力が尽きるまで読み明かしたのだが、残念ながらその後3日ほど知恵熱を出した為、両親には心配をかけてしまった。
そんな経緯があり、ひとりでの図書室の出入りを禁じられている身なのだ。
「シャルロッテは本当に本が好きね。将来学者さんになっても、おかしくないわ」
母が微笑んでそういう。
前の世界と比べて科学の分野が非常に遅れているこの世界だが、男女の権利はあまり差異がない。
貴族の娘が政略結婚の道具になっているのは真実だが、息子も同じ扱いは受けている。
女性では家督が継げないということもないので、男性が多くの頭目を務める中、稀ではあるが独立心が強い令嬢の一部は婿にではなく自分で爵位を継ぐ者もいる。
大多数を占める宗教は、あの黒き山羊様を崇拝する地母神教なので、女性を敬う下地があるのだろう。
ともあれこの世界の大半の女性は表立って動くことは男性に任せて、裏で上手に夫を動かすのを良しとしているようだ。
「学者になんてなったら、ずっと研究室から出なくなるよこの子は! シャルロッテは私と一緒に大人になっても領地にいるよね?」
おっと、兄が変なことを言っている。寂しがり屋なのか過保護なのかどちらなのかわからないが、なにかと妹の私を気にかけてくれる優しい兄だ。
しかし子供2人が成人しても家にいるのはこの世界でもおかしいだろう。
そもそも兄に嫁が来る前には家を出ていたいところである。
よくわかっていない風を装って兄には笑顔だけ返しておいた。
今の世界に慣れることに必死で、将来を考えたことがなかったけれど、まだこの身は子供なのだから学者を目指すのも夢ではないのだ。
特にこの体になってからは、記憶力も昔とは段違いに良い。
貴族の娘としては政略結婚が多いだろうが、別にそこに画家や学者などの肩書がついても不都合はないはずだ。
なにが出来るかわからないが、その可能性を思うと心がはずむ気がした。
前世を覚えたままの自分がうまく結婚する自信はないが、最悪祖母の家に転がり込むのも選択肢のひとつだ。
柔らかい朝の陽ざしの中で、領主になる前に剣の腕を磨いて騎士になるのだと夢を語る兄の言葉を聞きながら、ゆるゆると朝食の時間は過ぎていった。