471話 お辞儀です
「よお、食料の確認か?」
ロルフは手を軽く上げてテオを迎える。
私も挨拶をしようと反射的にスカートの両裾を持ち上げ、軽く体を上下させた。
その瞬間、周囲が騒めくと同時にヒソヒソと声が聞こえる。
「おお……、鉱山でこんな挨拶が見られるなんてここしかないだろうな」
テオが若干怯んだように、それでも笑顔を作ってそう言う。
「ほらほら、見世物じゃないんだ。お前らは荷を運ぶなり何なり仕事しな!」
ロルフがパンパンッと手を叩いて鉱夫達を追い立てる。
私を凝視していた彼等は、それぞれ馬車から荷を降ろしに戻った。
それでも怪訝そうな視線が投げられているのがわかる。
「育ちがいいっちゃー聞こえが良いが、場所を選ばないとなあ。ああ、育ちは間違いなくいいのか」
ぽりぽりと頭を掻きながら困り顔のテオの言葉に、私は自分がやらかした事にやっと気付いた。
鉱山にいるような女性は、いや町の人間でもお辞儀などしないのだ。
「まあ、黙ってても貴族だったのは知られただろうけど身の回りには気を付けな。彼奴らは俺らと違ってまだ給金も貰ってない食い詰め者だからな」
貴族への逆恨みで嫌がらせを受ける事はあるかもしれないと思っていたけれど、何ヶ月かここで働いて懐の潤っているテオ達とは違い新参の彼らは食材を盗む可能性もあるくらい心に余裕がないのだ。
そんな人間から見たら、貴族らしき非力で年寄りの私はいいカモということらしい。
手を出さないようには言い聞かせてくれるそうだが、果たしてそれを聞き入れるかは運次第だという。
小屋に押し入られる事もあるかもしれない……。
グーちゃんがいるとはいえ、自分で危険を呼び込むなんてとんだ間抜けだ。
身に染み付いた貴族の所作のせいで、アニーまで危険な目に遭うことになってしまうとは考えてもみなかった。
そんな可能性をちっとも想像しなかった自分が嫌になる。
そもそも馬車を見になどせずに、真っ直ぐ食堂に向かえばよかったのだ。
気を落とす私をテオとロルフが慰めようとしてくれるのが、また情けなくなってくる。
もっとしっかりしなければ。
だけれど町人のように振舞おうにも、どうしたらいいかわからない。
この世界に生まれてから今までの歳月は、元の平凡な主婦であった私を貴族令嬢として育てるのに十分な時間であったのだ。
「あんたにその辺のおばちゃんの真似は出来そうにないし、あんたはあんただ。毅然としてるがいいさ。変なのに絡まれたら、それこそテオか俺が助け舟を出すさ」
私の心を見透かすかのようにロルフがそう言った。
特になんて事のない言葉が私の胸を打つ。
私は私。
前世の平凡な一般人の私も、今世の貴族である私もどちらも私自身なのだ。
今はもう演じなくても、無理をしなくとも貴族として相応しい振る舞いが出来る。
私は日本人であったけれど、シャルロッテ・エーベルハルトでもあるのだ。
そんな当たり前の事をわかっていなかったのだ。
ずっと日本人の私がシャルロッテという仮面を被っている気でいたけれど、実際はそうではなかった。
そのどちらでもない老婦人に姿を変えてからそれを理解するなんて皮肉なことである。
私は顔を上げてにっこりと笑った。
「ええ、頼りにさせていただきますわ」
2人の男は見惚れるように、ぽかんとしている。
美女でも美少女でもないおばちゃんの笑顔にそんな顔をするなんて、おかしな人達。
シャルロッテはそう心の中で呟いたが、実際に彼らの目には一瞬桜姫と呼ばれる美貌の少女の笑顔が見えていたことに本人は気付く事はなかった。
「さあ、今日は新人どもの為に大盤振る舞いだ。ロッテ婆さんも張り切ってくれよ」
あの後、食糧が食堂へ運びこまれそれを見届けると同時にロルフは腕まくりをした。
この鉱山にいる限り食の心配はないのだと分からせる為に、新参者達が来た日の夜はご馳走を並べるのだそうだ。
ご馳走といっても貴族の食卓と比べれば貧しいものだけれど、スープに肉のオーブン焼き、付け合わせの焼き野菜に焼き立てのパンに果物と普段の食事とは比べられない品数を並べるのだという。
新鮮な素材が馬車で運ばれてきたばかりなので、腕を振るうにはちょうどいい機会なのだ。
そういえば昨夜はシチューとパンだけだったものね。
それを考えれば破格である。
肉は昨日塩漬けにした泣き猪の肉塊を使うという。
シチューの獣臭さは酷かったけれど、肉の方は大丈夫よね?
少々心配であるけれど、張り切っているロルフに口出しする事は出来なかった。
昨日の失態で、私の事は料理が出来ないと思われている節もあるもの。
今日もパン生地を丸めるのと、野菜をぶつ切りにする事しか任されていない。
後は指示をされるがままに動いているだけだ。
それも大事な仕事のひとつとはわかっているけれど、獣臭い食事を避ける為にもこの食堂での地位の向上を目指さないと。
「この林檎はどうしますの?」
食後のデザートはどうやら林檎にするようだ。
木箱いっぱいに詰められた赤い果実も食堂に運びこまれている。
「そこから食べたい奴が好きに取って行けばいいだけだが、せめて籠に盛ってテーブルに置くか」
ロルフはそこほど果物に情熱を持っていないのか、投げやりにそう言った。
これはチャンスではないだろうか?
「では、この林檎でデザートを作っても?」
私の言葉にロルフが手を止めた。




