460話 台無しです
昨日のアニーも、もしかしたらこんな風に変な夢を見て寝ぼけてしまったのかもしれない。
いや、あの様子を寝ぼけですますのは無理があるかしら?
でも落とし所が無いと、人間不安になるものなのだ。
「しゃう?」
私の起き上がる気配を感じてか、グーちゃんが声をかけてきた。
「私これから、ちょっと食堂へお手伝いに行くの。グーちゃんはアニーを見ててくれる?」
「わかったでしよ」
グーちゃんは屋根の下で眠るのが初めてだったようで、中々寝付けなかったと興奮気味に言っていた。
今も火掻き棒で薪をつついて楽しんでいる。
洞窟に無いものが珍しくて堪らないのだろう。
ここには廃屋が山ほどあるというのに、今までそのどこかに潜り込んで隠れ住むという選択はなかったようだ。
既に棚の上には頼んでおいた水筒が並んでいた。
そこから寝起きの水を1杯いただく。
うん、洞窟で飲んだと同じ新鮮でおいしい水だ。
仕事が早いのね。
グーちゃんは夜中に目が覚めてしまったので、ついでに洞窟へ水汲みへ行ってくれたという。
洞窟は採掘場より上にあるし、皆が言う「呪い」が「鉱毒」を指すのなら水質汚染の心配はなさそうだ。
山の朝の空気は、ひやりとして冷たい。
顔を洗おうと小屋を出ると、目に飛び込んできたのは赤黒い色であった。
まだ薄暗い明け方の明るさでも見分けがつく。
濡れた地面。
昨夜まではそこには何も無かったはずだ。
小屋の前の地面にそれはあった。
鉄錆の臭い。
赤く生臭く生きる物の体を巡る液体。
それは紛れもなく血液である。
私はしばし呆然とした。
よくよく見れば、地面には血で大きく✕と描かれている。
一瞬驚いたが、私は大きく溜息をついた。
なんともまあ、あからさまな行為だろう。
これは嫌がらせというやつね。
それともここから出て行けと言う警告?
元貴族が気に食わない人がいるのはわかるけれども、わざわざどこからか動物の血を持ってきて描いたというの?
ご苦労さまと言うしかない。
まさか人の血だなんて言わないわよね。
鍛冶小屋のそばに魔物を解体した残りがあったし、血抜きした桶があってもおかしくない。
私は井戸から水を汲んで、地面の血を洗い流した。
仕事前だというのに面倒な事をさせるものだわ。
でもほおっておいたら生臭いし、虫が湧いたら嫌だもの。
さっさと綺麗にしてしまうに限るわね。
何度か井戸を往復して地面を清める。
朝からこんな事をさせるなんて嫌がらせとしては成功しているのかしら?
夜中はグーちゃんが洞窟へ水を汲みに行ったはずだし、夜目でも彼なら気付いただろう。
先程そんな話は出なかった事を考えると、まだ描かれてから時間がたってはいないはずだ。
血が乾いている様子はないし、きっとそうだ。
それにしてもやり過ぎだ。
血溜まりならともかく、✕なんて如何にも人が描いたってわかってしまう。
人は理解出来ないモノに怯えるのだから、こんな人工的な事をしたら台無しというものだ。
それとも、嫌がらせをする人間がいる事を報せるという意味では正解なのかしら?
そこで、はっと気付く。
この犯人が私の反応を見たくて、どこかで見張っている可能性もあるのよね?
もしかして、悲鳴のひとつも上げるべきだったかしら。
貴族の老女なら、声もなく気絶する方が相応しい?
怖がらせたくてわざわざ、朝一番に血を運んで上手に✕と描いたのよね。
そう思うとその労力のかけ方に、笑いが込み上げてきた。
こらこらシャルロッテ、駄目よ笑っては。
そう自戒するが、どうしても顔が笑ってしまう。
これを描いた何某は、婆さんひとり驚かせなかったのだ。
いやいや、力作ではないか。
きっと母様なら悲鳴を上げたはずだわ。
でも、とっとと掃除してしまって、良かったのかしら。
もう少し勿体付けてショックで言葉を失った様にこれを鑑賞したり、腰を抜かした振りをすべきだった。
そうしたら得意気に犯人が現れて、演説のひとつもしてくれたのではないかしら?
これでは台無しだわ。
犯人が早起きして茂みに隠れて、老女が驚くのをいまかいまかと待ち構えているかと思うと、気の毒でしょうがない。
少しも驚く事無く淡々と処理してしまって、何だか期待に添えなくて申し訳なくなってきた。
気まずい気持ちでサッと地面を清めて、そのまま食堂へと向かう。
色々考えたいけれど、まずは仕事を勤めなければね。
初日から遅刻なんていやだもの。
鳥のさえずりを聞きながら、食堂へと足を運ぶ。
「おはようございます。いい朝ですね」
よく眠って爽快な私とは反対に、ロルフは目に隈を作っていた。
なんと、まだ眠っていないのだそうだ。
「よう、ロッテ婆さん。時間通りたあ、いい心掛けだ」
昨夜は言われるまま先に返されたけれど、食堂の中は荒れていた。
木の酒杯はそこらに転がり、皿はひっくり返ってなんなら椅子も倒れている。
暴漢でも現れた有様だけれど、ロルフの落ち着いた様子を見るとそうでもないようだ。
「いつもこんな感じさ。さあ、洗い物を回収して、食堂の裏手の水場で洗ってくれ。タダ酒のせいで毎晩飲み過ぎた奴らが暴れて手がつけられなくてな」
惨状に呆れる私に、説明をしてくれる。
なるほど、食事の時間に私を下がらせたのはそういう訳だったのか。
私があのまま居座っていたら、この有様を見るに無事では済まなかっただろう。
深酒をした輩に絡まれる事はなくとも、酔っ払い同士の喧嘩や不注意でふっとばされてもおかしくない。
私の安全の為に、早く上がらせてくれたのね。
ロルフの良心的な部分を見たような気がして、私は機嫌よく籠に散らかった食器を回収していった。
ついでに椅子も直して、食べこぼしも掃除する。
食事の支度もさることながら、この後始末を考えると、ひとりでこの食堂を取り仕切るのはかなりの苦行であろう。
聞けばロルフは夜中まで酒飲みの為に食堂を開けているのだという。
そうして朝食兼昼食を仕込んで、やっと就寝するのだそうだ。
それってかなりブラックじゃない?
少し彼の生活が心配になってきてしまった。




