452話 焼き方です
涙で死ぬ。
ロマンチックといえばそうなのかしら?
失恋した娘が自分の涙で溺れて死ぬとかなら確かに浪漫があるわね。
でもイボイボの外見というし、猪というからには厳つい見た目なのだろう。
そんな怖い外見に硝子のハートだなんて、チグハグもいいところね。
まるで童話か何かに登場しそうね。
「そんな不思議な生き物が……」
「だから息を潜めて怖がらせず、逃がさず仕留めなきゃならねえ。なかなか難しいんだこれが」
「……勉強になりますわ」
ロルフは私が感心して何度も頷くのに満足そうにしている。
私が知らない事が多く料理人の話は興味深いせいか、熱心に聞いてしまう。
それが功を奏したのか、ロルフは饒舌に語ってくれるので私は先程の失態を引き摺らないですんだ。
「それじゃあ釜戸でパンを焼いてくれ」
私の作業を終わったのを見て、そう指示が飛ぶ。
手袋をしてから、鉄板を持ち上げて釜戸へと運ぶ。
あら、意外と重いのね。
料理道具の軽量化とか利便性は二の次なようだ。
使いやすい料理道具とか作るのはどうかしら?
金属を薄く平らにするのも技術がいるだろうし、それだと高価になりすぎて採算が取れないかもしれない。
「おーっと、ロッテ婆さん待ちな」
釜戸に生地を入れるところで止められる。
「ほら、釜戸の中の火がまだ落ち着いてないだろ?」
言われるままに覗いて見ると、確かに薪が燃え盛っている。
「よく焼けそうですわ」
「はー! やっぱりあんた料理を知らないだろ。このまま入れたら外は焦げ焦げ中は生焼けの煙の匂いがきついとんでもないパンになっちまう。この火が落ち着いて熾火になったら入れるんだ」
「まあ! そんなことに!」
うーん、前世でキャンプのひとつもやっておくべきだった。
私ってこんなに世間知らずなのね。
ロルフは火が収まってから、火かき棒で薪を平均的に釜の縁に並べてみせた。
「ちゃんと火加減を覚えてくれ。こうすれば満遍なく火が通る」
そうして中をもう一度確認すると、木蓋で入口が塞がれた。
しっかりとその様子を記憶して、明日からの仕事に生かさなければ。
そうして石窯の中に鉄板を入れしばらく待つと香ばしい穀物のいい匂いが漂ってくる。
「そら、今日のパンの機嫌はどうだ?」
料理人は、火かき棒で鉄板を手前に寄せてから革手袋の両の手で外に出すと調理台に載せた。
この長机の表面にある焦げ茶の模様はどうやら熱々の鉄板で焼けた跡であるようだ。
最初は無地の年輪だけの板きれが、年月をかけ毎日の調理の度に焼け焦げて、この模様となった事を考えると何だか感慨深くなった。
「ほら、俺らの特権だ」
ロルフは焼け具合を確認する為に割ったパンの半分を投げて寄越した。
慌てて受け取ると、その熱さは別として立ち上る湿気を含んだ蒸気の甘く香る匂いにうっとりしてしまいそうだ。
出来たてパンの味見は格別なもの。
雑穀が多く入って侯爵家のパンと比べると目は詰まっていないし、脱穀が甘いのか口に少し残って食感は悪いが、よく噛むと甘みが広がる。
色んな雑穀を入れてかさましはしているけれど、栄養学的にはふかふかの真っ白いパンより余程栄養もあって食物繊維も取れる事だろう。
この焼きたてパンは上等と言っても良いパンのひとつである。
食通は蘊蓄を語り希少なものを有難がる傾向にあるが、高価な食材で手間暇かけたものも、安くて手軽に口に入るものもどちらもおいしくていいのだ。
特に洞窟で過ごした後なのだから、私には感動を覚えるほどおいしく思えた。
空腹は最高の調味料というけれど、粗食もまたそうであるのだ。
暖炉に吊り下げられた大鍋の中には泣き猪の臓物が根野菜と共にコトコトと煮込まれている。
少々獣臭いけれど、野禽料理なのだからそういうものなのだろう。
どんな味なのか夕食が楽しみである。
大きな布をロルフは調理台の上にかけると、荒熱が取れないパンをそこに積み始めた。
私は新しい生地を釜戸へ運び先ほどの料理人のように中へとそっと送り込む。
パンの数が十分焼けるまで私はこの作業だ。
そうこうするうちに、濃厚なシチューの匂いが食堂に立ち込めてくる。
それが合図かのように、深さのある木の皿が無造作に放りこまれた籠が暖炉の横にどっかりと置かれた。
今日の夕食は獲れたて泣き猪の根菜シチューと雑穀黒パンで完成のようだ。
2品の食卓は品数少ないというかもしれないが雑穀には栄養があるし、シチューも肉と野菜が入っているのでバランスの良い食事だと思われる。
この時代の栄養学が未発達の事を考えると、ロルフの料理人としての献立の腕前は上等なものなのではないだろうか?
私は酒樽から大きな水差しに移したビールを木の杯に入れて渡す役割を仰せつかった。
簡単な作業で良かったわ。
給仕というから注文を受けたり、料理を運んだりするものかと思ったけれど、そういう訳でもないらしい。
ロルフは鍋から汁をよそう係らしく、何度も大鍋を木の匙でかき回している。
ちょっと子供の頃の給食当番を思い出して笑みが浮かんだ。
鉱夫達は行儀が良いとは言えないので、自分で酒を注がせば盛大に零すは、鍋から肉や脂身ばかりを持って行ってしまうので見張り番という名の給仕が必要なのらしい。
これは確かにひとりでは無理が出るだろう。
さあ食堂の開店である。




