45話 傷跡です
私が男達を追い出した意図を汲んで、侍女がハイデマリーに優しく話しかけた。
「お嬢様、全部聖女様に聞いていただきましょう」
いや聖女様ではないのだけど、でもまあその方が話しやすいというなら仕方ない。
「私は種が根差す時に運良く退けることが出来ましたが、その短時間でも悪夢でしたわ。あれの恐ろしさは身に染みています。あなたは勇敢にあれと戦い続けたのを私は存じております。誰が何と言おうと」
言葉にならないのかハイデマリーは泣き続けて、私はその手を握り背中をさすっていた。
少しでも温かくなるように。
この子の心が、凍えてしまわないように。
ひとしきり泣いた後に、侍女が気を利かせてお茶を入れてきてくれた。
泣いた時には、水分補給もしっかりしないとね。
彼女はお茶を飲んで落ち着いたのか、ぽつりぽつりと語り出す。
ある夜、長い悪夢を見たことを。
目が覚めたらそれは悪夢ではなく、現実にはおぞましい何かが左手に寄生していたことを。
夢の中で人を踏みにじり罵倒し、そしてそれを楽しむ自分を見て絶望し、行動にどんどん歯止めが効かなくなり信じられない言動をするようになったことを。
「人を虐めて喜んでいたのです。あれは私。紛れもなく自分自身です。私の中にあのようなおぞましい喜びがあるなんて、耐えられない。私にあんな忌まわしいものが憑りついていたなんて耐えられないのです」
ブルブルと震えている。
思春期、ましてや礼儀正しい潔癖気味の少女にしたら死にたくなる程の責め苦であることは間違いない。
「茶会でも他の令嬢を貶めて、私は優越感に浸っていたのですわ。今までそんな真似もしたことがなければ、そんなこと思いもしなかったのに。お願い信じて、あれは私ではないの。でも私だった。私自身だった」
「信じていますわ。あれはそういう悪い種なのです」
ふと傍らに控える侍女を見る。
きっとこの侍女は全てを知っていても、彼女に仕えたのだ。
恐ろしいものに寄生されながらもなお、立ち上がろうとした彼女を支えたのだろう。
その忠誠に心の中で、敬意を表した。
「あれは無惨な行為を楽しむように人の思考を造り変える悪いもので、あなたに少しも非はないのです。今そう苦しんでいるということが、あれに染まらなかった証拠」
私の慰めの言葉が届いていないかのように、ハイデマリーは否定した。
「いいえ、いいえ、いいえ。あれは、あれは私の中に入ってきて、根を伸ばし私を造り替えたのです。今でも腕にはあの痕が残っているの。あれがまだ体の中にあるかもしれない。そして今にも私を支配するかもしれない。ねえ? 聖女様、腕を切れば私はキレイになりますか? それとも焼けばいいのでしょうか? 穢れた私が元に戻るにはどうすればよいのでしょう。もう手遅れだなどとどうか言わないで。私はどうすればよいのでしょうか」
早口で捲し立てるように、私に問い掛ける彼女の目の焦点はあっていない。
取り乱し、懇願するようにハイデマリーは私を見上げる。
確かに、この清浄な部屋でも微かな残滓が彼女に残っているのはわかる。
それが彼女を不安にさせているのか。
ただ、それはほんの少しの事で、汚れ物を触った後に手を洗ったけれどなんだか気になるという程度のものだ。
日常に戻り自分を取り戻していけば、気にならなくなるものだ。
かさぶたやニキビの痕のように、なんだか少しだけ気になる。
その程度のものが、彼女くらいの年齢には大きなものの様に感じられるのだ。
軽く考えてはいけない。
それ程の恐怖と苦悩の日々を過ごしたのも、事実なのだから。
蒼白で茶会からまだ数日だというのに、頬にもやつれが見える。
きっと食事が喉を通らないのだ。
私は聖女ではないけれど、彼女がそう思うならそれを演じなければいけない。
神の使いが呪い祓ったという事が、彼女の中の唯一の救いなのだ。
それがなければ、もしかしてこの少女は思いつめて命を絶ってしまうかもしれない。
それほどの危うさをはらんでいた。
もしかしたら私が知らないだけで、すでにそれに及ぼうとしたのかもしれない。
王宮でなく大聖堂に保護されているのも宗教的な意味もあろうが、彼女の精神の為でもあるのだろう。
地母神教は、自死を認めていない。
この聖別された空間は、彼女にとっての無菌室だ。
悪しきものに心身を汚染されたくないと病んでいるのなら、これ以上の適所はないだろう。
私には何もできない。
あの時あれを防いでくれたのは、実質はクロちゃんなのだもの。
今この立場になって、詐欺まがいの宗教家や占い師の気持ちが少しわかった気がする。
こういうことには、パフォーマンスが必要なのだ。
溺れる者は藁でも掴みたいように、何もなくとも彼らには縋って納得する材料がほしいのだ。
非日常的な呪文やお札や護摩壇や怪しいなにか。
きっとそれらが心を軽くしてくれるのだ。
なんならお金でもいい。
ここまでお金を払ったのだから、効果があるに違いない。
そういう納得出来るものが必要なのだ。
ハイデマリーに高慢の種が残っていることはないけれど、それでも心と体に傷跡がある。
それをなかったことにするには、つけられたと同じだけ納得する特別な何かが必要ということか。
ここで私が話を聞いて慰めていても、多少は良くなるかもしれないが劇的な効果はみられまい。
「これをあなたに」
私はネルケの街の教会で購入した腕輪をはずして、彼女の左手首につけた。
優雅に時間をかけてゆっくりと、もったいつけて、なるだけ大人っぽく。
神の御使いのつもりでやるのだ。
「黒山羊様はいつもあなたを見守ってらっしゃいます。これは神様の贈り物。あなたを悪しき者から守る盾となってくれましょう。あなたが傷跡を気にするなら、特別な浄化の儀式を用意いたします。それまでちゃんと眠って食事をとって体調を整えることを約束できますか?」
私がそういうと、ハイデマリーの目に光がともった。
「私は赦されるのですか?」
「赦すも何も、最初からあなたには咎はないのですから、気に病む必要はないのですよ」
言葉を慎重に選びつつ伝えると、頑なに自分が悪いと責めていた彼女は納得してくれたようだ。
小娘が慰めるよりも、聖女のお告げが効果的なのだ。
同じ内容でも誰がどう言って、本人がどう受け取るかが大事ということか。
今なら壺とかも買ってくれそうと思ってしまった。
売らないけどね。




