426話 愛称です
「アニカを知っているの?」
この主犯が賢者なら、この少女も無関係ではないということだ。
彼女の事を知っていてもおかしくはない。
「あいあ!」
「あいあはあなたの名前でしょ? アニカは違う人の名前よ」
少女は私の言葉に怒ったように、手を振り回して抗議した。
ぺちんと私の顔にそれが当たる。
痛くは無いが、うれしいことではない。
まったく要領を得ない。
「あいあ! あいあ!」
ずっとそれを主張している。
あら、「アニカ」の母音だけを読めば「あいあ」になる?
「もしかして、あなたの名前もアニカなの?」
「ん、あいあ!」
少女は暴れるのをやめて、満足気な声で返事をした。
「そう、アニカなのね……」
なるほど、アニカという名前に反応したのは自分のモノであるからか。
アニカ・シュヴァルツとは無関係なのか。
なんという皮肉だろう。
暗闇に閉じ込められた相手が、好ましくない相手と同じ名前だなんて。
だけれど、この少女に罪はない。
偶然同じ名前だからといって、無碍にするほど私の心は狭くない。
「しゃうー?」
黙り込んだ私へ、少女が不安げに声をあげた。
「大丈夫よ、アニカ。きっと何とかしてあげる」
それにしても、口に出してアニカと呼ぶのはやはりどこか抵抗があった。
この子が悪い訳じゃないけれど、どうしてもアニカ・シュヴァルツを思い出させるのだ。
「アニーと呼んでも良いかしら? お友達同士の愛称よ」
「ん、あいー、しゃうー」
言葉の意味を理解しているのかいないのか、強く肯定するようにそう少女は発した。
名前を呼ばれる事がそんなにも嬉しいものかと訝しく感じるほど喜んで、少女は私にしがみついて笑った。
私が生きる事を諦めないように用意されたような子供と荷物。
ひと晩眠れば、魔力もある程度回復するだろう。
こんな場所に魔法避けはないだろうし、魔力が回復すれば杖がなくてもきっと火が起こせる。
持ち運びに困る火の花だけど多少の灯りにはなるだろう。
そうすれば、出口を見つけるのも難しくはないかもしれない。
まるでゲームのようね。
私が飽きたり投げ出したりしないくらいの難易度の脱出ゲーム。
ゲームマスターは一体誰なのかしら?
「りーごりーご」
少女にせがまれるまま歌っていたら、そのまま眠くなってきた。
全くこの場所の探索も進んでいないのに我ながら呑気な事である。
こんな状況なのに、なんだか危機感が欠如しているわね。
いくら図太くてもおかしくはないかしら?
そんな事を思いながら、新しく手に入れた鞄を枕に少女と共に眠りについた。
ハァ ハァ ハッ ハッ ハッ
息の荒い呼吸音がする。
それとツンと鼻をつく獣臭が、私の意識を眠りの淵から浮かび上がらせた。
雨に濡れた野良犬の様な臭い。
他にも腐臭が混じっているのだろうか。
ひっ捕まえてお風呂に入れて洗ってあげたらさぞかし汚れがおちるだろう。
これがクロちゃんだったら、抱き寄せているところなのに。
寝惚けながらそんな事を思う。
残念だけど私の仔山羊は特別だから、こんな臭いはしないのよね。
一時、貴族の間で黒山羊を飼うのが流行ったようだけど、彼らの奔放な性格と生活習慣は室内飼いには向かなかったそうだ。
自由気ままに壁紙を剥がし、家具に登り好き勝手に齧り回ったという。
どれだけ他の貴族へ見栄を張る為に山羊だけの専用部屋を作ってみても、その鳴き声と高い身体能力、そしてトイレを覚えないので諦めて外飼いになったらしい。
室内飼いが出来て素晴らしく頭が良い山羊は、私のクロちゃんだけなのだ。
獣の気配に、私はそんな事を考えながら目を覚ました。
覚ましたといっても、目を開けてもここは暗闇なのだけど。
ハァ ハァ ハァ ハァ
おかしい。
まだその呼吸音は続いている。
夢ではなかったのだ。
私は絶句した。
それは私達を覗き込むようにしながら、口で生暖かい息を吐きながら呼吸しているのがわかったからだ。
私はすぐさま目を閉じて寝たふりをした。
これは一体何だろう?
野犬か狼か、それとも別の魔獣とか?
もし人であったとしても普通では無い。
私達は何だってこんな獣の前でのんびりと寝ていたのだろうか。
もっと安全確認をして、身を守れる場所を確保すべきだったのに。
闇の中に、二つの双眸が燃える炎の様に赤く浮かび上がっていた。
寝たふりなんかして悠長にしていたら、ぱっくり食べられてしまうのかしら。
私は悲鳴を上げるのも忘れて、そんな事を考えていた。
私が起きる事も出来ずどうするか悩んでいると、その獣らしき何かは特に何かをするということもなく離れていくのがわかった。
ただただ、私達の寝顔を見ていただけなのだ。
離れていくその迷わない確固たる足音が、この暗闇の中でも夜目が効くことを教えてくれていた。
第3の何かが、ここにはいるのだ。
あれは私達をここに運んだものかしら?
それとも私達と同じようにこの洞窟に捨て置かれれたなにか?
本当に顔を覗き込んでいただけ?
私は不安になって、そっとアニーの口元に手をかざした。
柔らかな息が手の平に当たる。
良かった、何かされた訳ではなさそうだ。
実は寝てる間に、横の少女が貪り食われてたとか洒落にもならない。
あれには害意がないと思っていいのだろうか。
まんじりともしない不安な時間が過ぎていった。




