ロンメル会長と多忙な日々9
「ふう、美味しい酒だった」
ホルガーは「影たまり」を出ると、今晩の酒場談義を思い返しながら自分の店の金庫に仕入れてきた水晶髑髏をしまった。
残暑を振り払うため1杯だけと寄った酒場で長居をし過ぎたようだ。
こんなに飲む予定ではなかったのに。
「ロンメルの旦那は、聞き上手でならねえや」
上手く聞いてくれるからこそ、こちらも饒舌になるというものだ。
あの後手洗いから戻るとロンメルは少し浮世離れした様子でぼんやりとしていたのは気になったが、大手の商会の会長なのだから疲れが溜まっていたのだろう。
結局その後は、すぐにお開きとなった。
高額の商品を持ったまま、下町の我が家へ帰る事は出来ない。
出世はしたものの、ホルガーは住居を上流階級の住む区画に構える気にはならなかった。
田舎から出てきて自分を受け入れてくれた場所は離れがたく、中々引越しの思い切りがつかない。
食事はほとんど外食であるし寝床があれば十分な現状、住居を変える必要性をあまり感じていなかった。
なんといっても下町の家賃の低さは魅力的だ。
金庫と店の戸締りも十分確認すると、ホルガーは夜道を急いだ。
下町への門が閉まる前に、帰らないと。
不便といえば各地区の閉門時間くらいか。
まだまだ夜の喧騒が冷めやらぬうちに、足を早めてギリギリに門をくぐると下町へと着いた。
汗もかいて喉も乾いたところだし、もう一杯引っ掛けて……っと、ホルガーは昔馴染みの酒場へ足を向け路地へと入った。
「……ないの。……を、知りませんか?」
いつの間にいたのか、若い女性が後ろに立っていた。
見れば項垂れて気落ちしている様子だ。
「娘さん、どうかしたんで?」
「……ないの」
すぐに先程の「櫛の女」の話を思い出したが、バカバカしいとホルガーは首を振った。
彼女は、青白い顔をしていて具合が悪そうだ。
そんな気の毒な娘を前に、与太話を思い出した事で自分の俗物具合にいささか呆れたものだ。
血の気の失せたとは、こういう顔色をいうのだろう。
紙よりも白く青ざめて、病人のようではないか。
「気分が悪そうだし、大丈夫ですかい?」
ホルガーが心配して手をとると、それは氷のように冷たい。
反射的に手を離そうとしたが、それよりも早くぐっと相手が手に力を入れて握り返される。
病人のような彼女のどこに、そんな力があったのだろうか。
「大丈夫じゃないの」
彼女はそう言うと、ホルガーをじっと見つめた。
ホルガーが何事かと口にする前に、それは起きた。
彼の目の前で、女は姿を変えていく。
その目は黒い色で満たされ白目が無くなり、眼窩から零れ落ちそうに膨らむとその表面はまるで茹で零れるお湯の様にポコポコと小さく膨れて弾けては震えていた。
鼻の穴からは血が垂れて、口からだらし無くだらんと垂れた舌を赤く染めている。
手も足も腕も首も、見える素肌には全て噛まれたような赤い穴が穿たれて、赤黒い血がダラダラと垂れている。
それがホルガーの目の前で起きていた。
逃げ出したくても手を掴まれているし、そもそもそれを振り払う事も出来なかった。
この凄惨な女性の姿を目にして、体は強ばり声を出すことも出来なかったのだ。
「櫛がないの」
「私の櫛。私の櫛を知りませんか」
「ねえ、櫛がないの。櫛が櫛が櫛が櫛がくしがくしがくしがくしがくしがくしがわたわたわたわたわたわたわた」
ホルガーの頭の中に女の声が酷く響く。
ぐわんぐわんと鐘の音のようにうるさく響いて、それは彼の意識を刈り取った。
「ロンメル様、今宵も当店へ足を運んでいただきありがとうございます。にゃるしゅたん」
「やあ、先週ぶりだね。にゃるがしゃんな」
奇妙な合言葉と共にロンメルは「影たまり」へ、一息つきに来ていた。
「この間はホルガーのお陰で楽しませて貰ったよ。彼は今日は来るかな?」
あの晩、思ったよりも気分転換になって仕事の捗りも良くなったのだ。
やはり気分転換は大事である。
それを確認出来たのもあって、もう一杯くらい彼に酒を奢ってもいいだろうとロンメルは思っていた。
「なんでも急に休暇をとると言って、あちこちに挨拶に回ったそうですよ」
ロンメルは、そんな話も把握しているバーテンダーに感心した。
ホルガーもああ見えて自分と劣らず多忙なのだ。
自分も見習って近いうちに休暇をとるのも悪くないと考えがわいた。
仕事を部下に任すのも必要な事だと今なら思える。
「先週ここで話した時は一言もそんな事は言ってなかったのに、急な事ですね」
この間は、また飲みましょうと解散したのに何があったというのだろう。
「下町の住居を引き払って、こちらに居を構える気になったそうですし、運命の女性とでも出会って生活を変える決心でもついたのかも知れませんね」
バーテンダーは、意味ありげに口角を上げた。
「おや、それは隅におけない話だ。でもまあこちらに住居を移す方が仕事にも便利だし防犯上にも安心だね。店もある事だし、彼の働きぶりならとうの昔に下町を卒業していてもおかしくない事だ。休暇に引越しでは、しばらくはこちらに顔を見せなさそうですね」
少し残念そうなロンメルに、バーテンダーは杯を差し出した。
「ホルガー様程、話上手ではありませんが今日は私がお相手をしますよ」
ニヤリと笑って、彼は先日起きたという下町で起きたという気の毒な男が会った幽霊話を話だした。
さて、こんな話がありまして
ある酒場で話が弾んだ男が下町への帰宅の途中……




