ロンメル会長と多忙な日々6
ロンメルの手元に出てきた酒は柑橘の爽快感を贅沢に味わう調合酒であった。
残暑の暑さを拭い去るそれは、同時に多忙による苛苛とした棘をゆっくりと溶かしてくれるようだ。
ゴクリと喉を鳴らす。
硝子の酒杯で、酒が供されるのもこの酒場の利点だ。
一般的には木製や陶器、あるいは錫や銅のタンカードで酒を飲ませるものだが、高価な硝子製のものは口当たりが違う。
高価な酒杯に、美味しい酒。
胡散臭くはあれど、酒場として「影たまり」は優秀なのであった。
「ロンメル様! 御一緒しても?」
目を閉じて口の中でゆっくりと酒を転がし味わっていると、背の低い背が曲がった男が声を掛けてきた。
所謂、亀背と呼ばれる体型だ。
背骨が歪曲し前に屈んだようになる病気である。
実際にはカルシウム、リンやビタミンDの不足で引き起こされる病気であるが、栄養を考えるよりもその日の食事にありつけるかわからないような時代では防ぎようもない。
不自由もあるが、その外見を強みに見世物小屋に出演したり、宮廷道化師になる者もいる。
少なくない人数がこの病を背負っているが、ともあれこのクラブに出入りしているのだから、その困難を乗り越えた人間のひとりに違いなかった。
「おや、ホルガーじゃないですか。どうぞこちらへ」
突然の申し出をロンメルは快諾した。
このホルガーという男は、行商人から身を立てて宝石商としてひと角の人物と一目置かれる存在である。
ロンメルもあちらこちらへと顔を出して国中を回るけれど、そのフットワークの軽さはホルガーの足元にも及ばない。
その行動範囲の広さと持ち前の人懐っこさで色々な話を仕入れていて、語り部としても優秀な男なのである。
こんな夜にはピッタリな酒の相手ではないか。
そうロンメルは考えると、彼を歓迎した。
「この間は、大きな煙水晶を融通してもらえて助かりました」
「いえいえ、あれくらいの事……。ロンメル様の役に立ったのなら光栄ですよ。ちょうど在庫もありましたし」
「私はああいう事には疎いもので、先方もそれは満足して下さったよ」
「それはそれは!貴族の方というのは時に迷信を信じ、まじないに頼るものですから。これからもどうぞご贔屓に」
シャルロッテ・エーベルハルトが悪夢避けの道具か何かはないかと問い合わせて来たのには驚いた。
何せ彼女は悪夢など気にもせず、それどころか笑い飛ばしそうな胆力がありそうな少女なのだから。
用途は不明であったが、あの連日続いた「噛みつき男」への不安で彼女も弱気になったのだろう。
その後、彼女がまさか「噛みつき男」に襲撃されるとは思っても見なかったが、あれから彼女は憔悴した素振りもなく元気で何よりだ。
「最近は貴族の間で、悪夢避けが流行ってますからね。いやはや何が流行るか分からないもので」
「私のところでは扱っていないので知りませんでしたが、そのようですね」
ホルガーから聞いた話では、ここ数年何やら眠っているとどこかに誘う声や何かが聞こえて不安になる者が出ているという。
あの令嬢は明確に悪夢と言っていたので症状は違うが、お守りがあれば心強いし思い込みでもよく眠れるようになるのはいい事だ。
「そうそう、『噛みつき男』の首が笑う話は聞きましたか?」
「いや、それは初耳だね」
「何でも夜中に血を流しながらゲタゲタと笑うそうで、生首の髪の毛がとうとう真っ赤に染まったとかなんとか」
よくある与太話であるが、「影たまり」では怪異話を否定してはいけない事になっている。
普段、現実ばかり見るせいか、この胡散臭さが心地よい。
酒の席でそれは嘘だと看破するのは無粋というもので、話に乗って楽しむのも一興であった。
実際の「噛みつき男」を知っていたら彼がそんな風に笑う事は無いと断言したろうが、生憎万人にとっては違う。
「噛みつき男」は悪徳の神の信者の浮浪者だと公表されているので、尾ヒレをつけながら色々な噂が飛び交っているのだ。
髪が赤いのは女達の恨みであるという与太話も、つい先日にロンメルの耳に入ったばかりだ。
実際は、もとより赤毛であったのがそう脚色されたのだと判断していた。
ロンメルは、ふっと目を細めて思い出していた。
血に見まごうほどの赤い髪というと、初夏の頃「噛みつき男」の噂が出るか出ないかの時期に、ここである青年に出会ったのだ。
紅玉のような鮮やかな赤毛に、日によく焼けた肌、女性ならば見惚れてしまうだろう美貌の青年。
なかなかお目にかかれない美丈夫であった。
その青年は、商業国家グローゼンハング共和国から王国に来訪中だと言い、とても機嫌が良さげな様子で陽気に杯を傾けていた。
なんでも長年の夢が叶いそうだということで、その喜ぶ様は、見ていてとても微笑ましくこちらも幸せになりそうなほどであった。
お互い商人ということで意気投合して、その日は遅くまで飲んだものだ。
いろいろな商売話をしながら、他の客も交えて話し込むうちに、この場所柄のせいか気付くと怪異話になっていた。
その時に王国では聞かない珍しい「Yの手」の逸話であるとか、「猿の手」の話を聞かされてそれは感心したものだ。
何より青年の話しぶりはまるで目の前で見て来たかのような詳細で、その不気味さはともかく湿度や温度まで伴っているかのようであった。
商業国家のお菓子が手に入った時には、それを手土産に侯爵令嬢を訪ねて丁度居合わせた令嬢達に最もらしく披露したものだ。
つい、興が乗ってしまいいたいけな少女を怖がらせてしまったのは申し訳なかったが、シャルロッテ・エーベルハルトは、ついぞ怖がるふりもしてはくれなかったのが心残りでならなかった。
最初は息抜きに使っていた「影たまり」だが、彼女が子供らしく怖がる姿を見てみたいのもあってロンメルは怪異話に前よりも耳を傾けるようになっていた。




