415話 怒りです
母親の死を認めない哀れな男を利用して、何の罪もないルドルフに悪夢の日々を過ごさせてその挙句襲わせるのが「嫌がらせ」?
「噛みつき男」に兄を狙わせたのが、まさか「嫌がらせ」だとは恐れ入る。
言葉遊びでもしているつもりなのだろうか?
それは「嫌がらせ」ではなく、殺人教唆では無いか。
「いじめ」を「遊び」と置き換えれば責任逃れになると思い込んでいる子供のようだ。
実際、それが通じる事もあるだろうが、された方は納得するはずがない。
犯罪を唆し、自分は関係ないとは良く言えたものだ。
その可愛らしい口でどれだけの嘘偽りを吐いてきたのか。
兄の生死も「噛みつき男」による被害者達の命も、この娘にとっては些細な事なのだ。
心が、気持ちが、すうっと冷たくなった。
「それで『嫌がらせ』を失敗したあなたは、何を言いに私の元へ来たというの?」
こちらが大人しくしていると思って、八つ当たりにきたのでしょう?
わかっているわ。
それ以外に理由など思い当たるはずがない。
自分が気に食わないから、サンドバックを探しに来たのだろう。
でも残念だったわね、今の私はすこぶる機嫌が悪いの。
強い語気の私の態度に怯んだのか、アニカは青い顔になった。
ああ、こういう人間なのだ。
私の前世を知られていると、怯えていたのが昔の様に感じる。
こんな子に、何を怯える必要があったのだろう。
弱者には何処までも強く出て、こちらが強く出ればひるむような人間に。
「な、なによ。怖い顔して、脅そうっていうの? あんたなんか……」
どうにか優勢に立とうとするが、上手く言葉が出ないらしい。
もう、彼女の戯言に耳を貸すのも馬鹿らしくなってきた。
こんな子に時間を使う程、暇ではないもの。
私はアニカ・シュヴァルツを冷たく一瞥すると、無視して会場へ戻ろうと歩き出す。
「ま、待ちなさいよ! 私を無視する気?!」
アニカは私を乱暴に引き戻そうとした。
しかし私を掴もうとした彼女の手は、阻まれた。
「いっ痛い。離して、何よこいつ」
音もなく現れ、アニカを阻んだのはアリッサだった。
顔はベールで隠しているが、身に纏う空気が尋常では無い気がする。
殺気を放っていると言ってもよい。
ミシッと、骨にヒビが入るような音がした。
あまりの痛みにか、その殺気に圧されてか叫ぶ事も出来ずにアニカはうずくまる。
「彼女は教会の庇護の厚い黒衣の貞女と呼ばれる人よ。王宮の人々からも信頼されているわ。今、会場に駆け込んであなたが泣き喚いて、私と彼女に手首の骨を折られたと訴えても誰も信じないことでしょう」
アニカの顔から血の気が失せた。
まさに、私が言ったその通りにしようとしたのだろう。
浅はかな娘だ。
「そんな事! やってみないとわからないじゃない」
負けず嫌いなのか、納得しないようだ。
他の人にも、こんな事をやっているのだろうか?
最初は同情されるだろうけれど、そのうち皆に避けられるだろうに。
いや、この子なら避けられているのを恐れられていると勘違いして悦に入るかもしれない。
「何故だと思う?」
アニカは返事をしなかった。
「黒衣の貞女がここにいる事を知っている人はいないし、彼女は身を隠すのに長けているの。そして私が人の骨を砕けるほどの握力があるなんて考える者は誰もいないの。あなたがどう主張しようとね」
そもそもアリッサはパーティに出る予定もなかったし、護衛としても王宮に付き添いの申請を出していない。
彼女は人で無いのだから、どこにでも潜んで現れる事が出来るのだもの。
「片手だけで済んで良かったわね。黒衣の貞女に感謝しなさい。ルフィノ・ガルシアは首以外全部無くしたのだから」
私は屈んで、アニカ・シュヴァルツの耳元でうんと冷たく聞こえるように囁いた。
「あなたも、そうはなりたくはないでしょう?」
アリッサに彼女を離すよう目で合図を送ると、私はうずくまるアニカを残して、何事もなかったかのように会場へ戻った。
溜め息をつかずには、いられなかった。
骨を傷めたのは申し訳ないけど、きっとアリッサも怒っていたのよね。
怒ってなくても、人で無いから加減が難しかったのかもしれないし。
そう考えれば、手首が千切れなかっただけマシというものだ。
私も少し意地悪を言ったかも知れないけれど「噛みつき男」が起こした事を考えれば、あれくらいは目を瞑ってもらっても良いような気がした。
私がああでもしなければ、アリッサもエスカレートして骨が砕けてたかもしれないのだもの。
自分がこんな風に怒るなんて、驚きだ。
窮鼠猫を噛むと言うけれど、わかってくれたかしら?
大体人生をめちゃくちゃにしたって、何の話だろう。
私は今も昔も無害であるはずだ。
でもまあ、彼女の商売の邪魔はしてしまったかもしれない。
大袈裟にする子だから、そういう事なのかも。
本当にうんざりしてしまった。
皆のところに戻って、気分を変えよう。




