4話 知らない人です
朝起きた時は、「おはよう」。
何か渡した時に帰ってくる言葉が、「ありがとう」。
眠りにつく前には、「おやすみなさい」。
日本語で作られていた私は、この世界で私に向けられた言葉を覚えていく。
まだ発声は危ういので出せるのは「あー」とか「うー」とか、「まんま」とか単純な記号なのだけど、何度も聞いていくうちに言葉は理解できるようになってきた。
世話係の女性の名前はマーサ。
いつも「かわいらしいシャルロッテ様」と最初につける。
ほぼ私につきっきりで、不自由がないよう心を配ってくれる頼もしい人だ。
私の命はマーサが握っているといっても過言ではないだろう。
家にある美術品や花や空、レースに絵本、マーサは美しいもので私を組み上げようとしているかのように、目に入るものは色鮮やかである。
そして私自身はというと、しっかりと鏡を見た時にびっくりしてしまった。
前世の面影のかけらもない、完全な別人。
ガラスや陶器にたまにキレイな人形が映り込んでいることがあったのだが、それは私自身だったのだ。
どういう法則なのかはわからないのだけど髪は光でピンクに光るストロベリーブロンド。
血色のよい唇に白磁の肌。
赤子ではあっても端正な顔立ちであるが、両親に似て冷たさはなく優し気である。
あんな冴えないおばさんがこんなかわいらしくしてもらうなんて、神様ありがとう。
そこは感謝しかない。
ただ、私は知っている。
おばさんの経験上、美人は兎に角やっかまれるものであると。
同じ行動をしても、外見で評価はかわるのだ。
良い時もあれば酷く悪くとられることもあるのが女性というものだ。
どこで敵が出来るかわかったものじゃないし、ひどいとまったく接点も関係もないのに逆恨みされたりもするものだ。
決して外見に思い上がることなく謙虚に生きていこうと心に誓った。
おばさんの知恵である。
時は夜半。
辺りは静まり返り美しい月の夜。
そよそよと風が頬を撫でる。
ふと目を開けると明りは落とされ、部屋には私ひとり。
マーサは続き部屋で眠っている時間だ。
なぜ風が?と閉まっているはずの窓に視線を向けると、引いてあったカーテンは開けられて、レースが揺らいでいる。
大きな窓からは眩しい程の月明りが部屋へと差し込み、そこに佇む1人の男を照らし出していた。
知らない人だわ。
浅黒い肌に黒い髪。
闇の化身のような姿に、特筆すべきはその麗しい顔。
あの美しい神様の世界だもの。
こんな夢のような美しい男の人がいてもおかしくはないのだろう。
自分のことキレイとか言ってすみません。
とっさにそんな申し訳ない気持ちがもたげてきた。
私から見てキレイなだけであって、実は美の基準がすごく高い世界な気がしてきた。
こんな美しい人と自分を比べることすらおこがましい。
その美しさの前に身が縮こまる気分だ。
と、いうかこの人は不審者ではないだろうか?
この家はお金持ちらしいので、泥棒や強盗が入ってもおかしくないだろう。
開けられた窓と知らない人間が部屋に入り込んでいる状況に、他の可能性が浮かんでこなかった。
こんなキレイな人が泥棒?美醜で職業を否定するわけではないが、なにかしっくりこないが他に思い当らない。
窓辺に立っている様子も室内を窺ったり聞き耳を立てている風でもないし、ただそこに立っているだけという感じだ。
意図なく立っているだけで、絵になるとは美形は得である。
話しかけようにもまだ言葉はしゃべれないし、赤子の身ではどうしようもないので、ここはひとつ寝たふりをしていよう。
「そんなごまかしをしないでいいよ」
それは威厳があり、人を魅了する不思議な声であった。
狸寝入りがバレて、ばつの悪さを覚えながら視線を彼に移す。
何度見ても言葉にならないほど美しい。
「君には前の世界の方が良かったんじゃないか?」
ギクリとした。
この人は私を知っている?
人に悪意を向けることがなかったのが取り柄なだけの平凡でつまらない私を知っている?
「溢れ返る善と悪を綯い交ぜにした、混沌たるかの世界。慈悲があり、無慈悲であり美しくてふしだらで醜くも愚かな世界を何故、離れたのか理解に苦しむね」
彼は音もなく窓から離れると、私の寝床を覗き込む。
「皆にはああ言ったものの、父のものが塵ひとつ損なわれるのが我慢ならないのだ私は。それが塵芥であったとしても、降り積もるすべてが偉大なる父のものであるはずではないか?」
何を言ってるのかよくわからないけど、これはあれよね?
神様が言っていた息子とやららしい?
なんだかファザコンっぽい?
自分でお父さんの世界の魂を渡すと言ったはずなのに、それが我慢ならないなんて矛盾した人だ。
「子供が親を慕うのはおかしなことではないだろう? 君にも覚えがあるはずだ。それと自分が決めたことにムカついてはいけないという決まりはないのだよ?」
成程、なかなか自由な思考らしい。
黒き山羊様と同じように、どうやら心が読まれているようで喋らなくても意思が通じるのは楽である。
「それに父の物が損なわれるのは、気が狂わんばかりに許せないのだけど、1つ利点があってね。渡した魂の分だけ、この箱庭で私も力が使えるのさ。いわば魂は私が他の神の箱庭で行動するための通貨みたいなものなんだよ。お金が通帳から減るのは嫌だけれど、その金で買う娯楽は楽しいものだろ?」
沢山の魂をお金に見立てているのか。
これまた次元の違う話が出てきた。
わがまま坊ちゃんな感じだ。
「おや? 君は夜中の不審者にちっとも驚かないのだね。もし私が世迷言を言う狂人だったらどうするんだい?」
今更何をいわんやである。
たしかに狂人だったら怖いけれど、赤子の私にはなすすべがないのだ。
にっと悪戯気に笑う姿は妖艶だ。
なんて生き生きとして、楽しそうな人なのだろう。
「魂が了承すれば譲渡はなされると神々に通達はしたが、まさか君のような人間まで是とするとは思いもしなかったよ。君はバカなのか? それとも浅はかなのか?」
笑いに満ちた目がスッと覚めて、冷たい一瞥をくれる。
確かに言われてみたらそうかもしれない。
私はバカで浅はかな人間なのだ。
でも人間って、大概そういう風に出来ていないかしら?
「君、なんだか全然驚かないんだね。つまらないな。ん? ああ、彼女のところで神酒を飲んでいるのか。なかなかご相伴預かれないものなんだよあれは」
ああ、あのおいしい飲み物のことね。
精神安定剤っていってたっけ。
さっき神々って言っていたけれど、神様っていっぱいいるのかしら?
そう言えば黒き山羊様は、神のひとりであると言っていた気がする。
「ちゃんとした説明はされていないのかな? インフォームドコンセントがなってないよねあの人は。ああ、言葉が適切ではないだろうけど、君にわかりやすくしてるだけだから気にしないでね」
彼はそう言うと、手をパッと広げて天井を撫でるように動かした。
そこには手の軌跡にそって、宇宙が描かれる。
「昔話をしてあげよう。その昔、神々は世界に人々に寄り添っていた。父なる神を筆頭に、そこかしこに神は宿り、信仰されていた。寛大なる偉大な父は、矮小な存在に知る恵みを与え、どんどんと隠されたものを暴き立てるのを赦し、人々は皮肉な事に神秘を駆逐していった。そして出来上がったのが君が知る世界さ」
映し出された星々の中から地球が映し出される。
まるでプラネタリウムみたいだ。
「人間が新しい神として貨幣や経済、科学を掲げたお陰で、信仰と神秘を拠り所とする旧き支配者は力を失うに至ってね。苗床となりすべてを人々に与え奪われた偉大な父はそうして自我まで食い尽くされて、白痴の王へと変貌してしまったのさ。彼は眠りにつき、あの世界は無尽蔵に魂を生み出し育み死に至り、また巡る場所になってしまった」
天井に映る宇宙が、ぐるぐると廻り人の歴史が早送りされていく。
単純で素朴であった人類は、あっという間に世界の理に手をかけたのだ。
「さて、父の二の舞を踏みたくない神々はどうしたと思う?」
そのまま、あの世界にいては自我を失ってしまうというなら逃げ出すしかないのでは?私でもそうするだろう。
「その通り!」
彼はパアンっと手を叩く。
乾いた音にびくりとしてしまうが、隣の部屋のマーサは起きてこないようだ。
「父の有様に嘆いた門の神は、旧き支配者達に並行する世界を割りふり、独立させたんだ。その箱庭の世界で自身を保つ信仰を得ることにしたのだよ。概ねそれは上手くいったのだけど、根源から切り離してしまったせいか魂を新しく生み出すのは、なかなか難しいみたいでね。お互いの世界に自分の信仰を拡げたり、試行錯誤は続いているところだ。まあ、父の世界の魂は飽和状態だから植木に剪定がいるように、手入れのつもりで他へ魂を譲渡してはいるんだ」
彼は両手をカニの様にチョキチョキと動かしてみせる。
「ただね、君には理由がないんじゃないか? この契約を破棄するなら僕は尽力するつもりだよ? 理不尽な戦争で死んだわけでもなく、飢餓の果て死んだわけでもない。拷問を受けたわけでも、虐待されて世を恨んでいたのでもない。普通に平凡に可もなく不可もないぬるま湯の生活だったはずだ。なにが嫌であの世界を離れるというんだい?」
言われてみればそうなのだが、何故か私の心は行き場を無くしていたのだ。
わかってもらえないかもしれないが、平凡であるが故に誰も知らない遠くへと行ってみたかったのだ。
彼は呆れた顔をして、ため息をついた。
「そういう訳でちょっと君にインタビューしてみたくてね。納得は出来なかった訳だが、その為にこの箱庭に体を作ってしまったから、いつかすれ違うかもしれないね」
そう言うと、形のいい眉を片方あげてニヤリと笑ってみせた。
「僕に似合う役どころは何かな? 旅の役者はどうだろう? それともエキゾチックな流浪の民? 自己紹介がまだだったね。そうだな黒き山羊に敬意を表して今ひとまずは黒い雄牛と名乗ろうか。それでは小さな愚かな魂よ、お邪魔したね」
歌うように言葉を紡ぎながら優雅にお辞儀をすると、次の瞬間には天井に映る宇宙も彼の姿もなくなっていた。
一体何だったのだろう。
まるで舞台をみていた気分だ。
不思議な事に、ある程度の騒ぎだったと思うのだが、誰も見回りにも起きても来なかった。
開かれていた窓もカーテンも元のままで、どこにも彼がいた痕跡は残されてはいない。
何もかもわかったような、わからないような話であった。
けれど、彼にも私がわからなかったろう。
きっと、非凡には凡人の心は測れないのだ。
反対もまたそうであるように。